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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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桑折散歩の忘れもの

 先に「朝宗の墓」を訪ねて、「伊達氏の祖「朝宗の墓」を訪ねる」として整理した。その「朝宗の墓」近くに「つつじケ岡遺跡」と呼ばれる河岸段丘の岡がある。
 ここに案内板が建っていて、そこで「大五輪遺跡」が案内される。気になっていたのは、ここにたどりついていなかった事だ。近くらしいと分かってからも、工場の敷地のかかわりなどが気になるという小心者で、一歩踏みいれられなかったのだ。

 今回、西根堰にかかる小さな橋板を渡って近づいた。
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 目印になったのが案内板だ。
 この案内板で「大五輪遺跡」は「満勝寺の開山(初代の住職)の墓所」らしいと説明される。
 それなら、「伊達五山の旧地」と「朝宗の墓」を関連させて整理した方がよさそうだと思う。

 その伊達五山について整理したのは、「西山城の散策③伊達五山の旧地を整理する」。
 伊達五山を開くのは、4代伊達政依だ。
 始祖伊達朝宗のためには、満勝寺を開く。その初代の住職は、1286(弘安9)年に会津若松の門田に東昌寺から招いた山叟慧仏(仏智)という方という。ここは、その方の墓所ということなのだろうか。
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 遺構としては、「長方形に積み上げられた石積み」が残るらしい。その遺構がどれかは分からなかったが、その上に五輪塔が建っていたのだろうと想像するらしい。
 案内板には、その想像図が示されている。


【案内板の説明
桑折町文化財史跡
大五輪遺跡
 大五輪遺跡は、満勝寺の開山(初代の住職)の墓所と伝えられる遺跡です。
 この伝承は江戸時代の延宝3年(1657)の伊達氏による「廻見覚書」に記されており、書き取られた絵図にも描かれていることから、江戸時代よりも古い時代の遺跡であることが分かっています。
 字名の「大五輪」は、五輪塔と呼ばれる墓塔が建っていた事に由来する地名であると考えられ、付近からは五輪塔の破片が見つかっています。
 現在残っている長方形に積み上げられた石積みは、発掘調査により地中から発見されたもので、ほとんど全体が土の中に埋まっていました。このような形の石積みは、江戸時代以前の中世と呼ばれる時代の墓によく見られるもので、五輪塔はおそらくこの上に建てられていたと思われます。
 この場所から約150mほど離れた場所にある田植地蔵遺跡には、ここから移された石碑や、五輪塔の一部、石鉢、石臼などの遺物が残されていました。
 大五輪遺跡は遺構、遺物、伝承などからみて中世の墓所であると考えられ、満勝寺跡、つつじケ丘遺跡と一連の初期の伊達氏に関わる遺跡です。
 所在 大字万正寺字大五輪
 立地 産ケ沢川の形成する河岸段丘上に立地
 平成4年3月 桑折町

 この遺跡を、満勝寺跡、つつじケ丘遺跡を一連の初期の伊達氏として括る。
 伊達五山の旧地を意識ずれば、この南東方向近くには光福寺の字名も残る。
 その直ぐ脇に信達大一揆刑場があって、そこを「産ケ沢の信達大一揆刑場」として整理しているが、そのすぐ脇の水田の位置関係だ。
 ここから移された石碑や、五輪塔の一部、石鉢、石臼などの遺物が残されていると案内される田植地蔵遺跡は確認していないが、気になる。「田植地蔵遺跡」は、農耕に関わる信仰遺跡として整理されているらしい。

 なお、伊達五山の旧地を訪ねた最後は、義広夫人のためと推定される光福寺だった。
 その時に、「念西夫人の光明寺②~伊達地区の伊達五山」として、伊達地区の伊達五山も整理し直している。
by shingen1948 | 2011-06-27 05:09 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)