岩代清水の泉と池をめぐる~福島の水道とかかわって⑧
2011年 02月 07日
明治11年から柳清水を福島町水道の水源としていたが、明治36年(1903)に、人口増加に伴って、ここに新たな水源池が求められたという。
各資料には「人口増加によって」とあるのだが、今のところこの時点での人口増加を裏付ける数字は確認できていない。
市史から見つけて拾った数値を並べてみる。
明治34年戸数4221戸・人口25266人で、明治37年で浜辺村と清水村の一部が福島町に合併した結果の人口が2万5千人とのことだ。ただ明治40年には確かに戸数5582戸、人口32524人ということで人口が増えている。ということは、この時点で人口増加があったということではなく、ベクトルとして増加が意識された段階ということだ。恐らく周辺の町村と合併をすることによって人口を増加させ、市制をめざすための準備だったのではないかと想像する。
この池の西側には、もう一つの池がある。この南側には、先に整理した明治18年に完成した島県監獄署の水道水源があり、更には西道路を挟んだ北側には「大清水」があるのだが、それらの水もこの水路に集まってくる。
それらの水を集めて下流へ流れて行く水路と、福島町水道水源の配水池とその西側の2つの池を使って、「清水ほたるの池公園」を構成する。
福島町水道水源確保の理由が、町村合併とかかわるらしいと想像したが、ここに水源を求めた事も町村合併はかかわっているように思える。
というのは、明治37年の福島町に合併した清水村の一部というのは、森合村らしいのだ。この辺りの事情を、市史の記述で追いながら想像すると、森合村との合併は、信夫山山麓に監獄署と現在福島高校である第三中学校ができたことによって市街化されてきたことで、住民意識が福島町と馴染んできているらしいことが感じられる。福島町側としては、水源池確保という課題解決を意識したように感じる。
※ この時点(明治37年)でこの大清水一帯も福島町に編入されたと思ったが、この時点で福島町と合併したのは、森合村の東側の一部だったようだ。2/8に、これ以下をカットする。
この辺りの散歩をしていて感じるのは、「むら」から「村」への移行が複雑で、他所からくると分かりにくいですね。泉村や森合村が「むら」の概念でくくられ、清水村が「村」の概念であるということは、地元の方でないと分かりにくいですよね。
清水地区(旧清水村)は、その名の通り水にまつわる史跡が多い土地ですが、そのいわれを知る地元民は多くないように思います。
shingenさんの貴重なフィールワーク、参考にさせていただきますね。
散歩をする者にとっては、その当たり前としていることが知りたいことであり、感心するところという関係でしょうかね。
いろいろなアドバイス、ありがとうございました。