地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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松飾りを納めた泉八幡神社

 松飾りを納めた泉八幡神社については、この辺りを散歩した時に、「泉民家庭の湧き水は、八幡坂神社参道脇を流れる」としてふれている。この神社の由来案内によると、文明元年(1469年)北畠氏に仕えた良満という者が、弘法太師堂と八幡宮を泉字大仏地内に勧請したと伝えられるとしている。
 また、慶長年間以来、南沢又の泉澤山久盛院で祭事を司ったが、明治以降は羽黒神社宮司が祭事を司ることになったという。恐らく神仏習合で寺が祭事を司っていたのを、明治政府の神仏に関わる政策の影響で変えることになったのだろうと思われる。
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 この案内にある太子堂についても、「飯坂街道沿いの太子堂(泉地区)」として、ふれた。この時にふれた「弘法太師堂」という案内標柱は今はない。


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 これ等が元々勧進されたという泉字大仏地内は、飯坂街道から刑務所通りに入る入口あたりから泉支所あたりの南側にかけての地域のようだ。
 多分、かかわりはないのだろうが、八幡宮と大仏という言葉からは、専門的な話が分からない散歩人としては、八幡宮が東大寺の大仏建立を手助けしたとかいうことをイメージしてしまう。
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 慶長年間以来、この神社のその祭事を司っていたという南沢又の泉澤山久盛院の由緒沿革を確認してみた。
 元和(1615)以前、宥仙和尚によって創立、寛永(1624~)年中播磨壱岐刑部久盛開基、宥全和尚開山とのこと。
 この「刑部久盛は、南沢又字中条の人で、その壱岐家中興の祖は、北畠顕家に従って戦功あり褒状賜る。刑部久盛の時代は、泉、沢又の二村を領していた。」とのこと。

 八幡神社とのかかわりについても記載があり、慶長(1596~)以来、泉村鎮守鷲神社と八幡神社の祭事に奉仕してきたとある。
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 移動関係の説明もあって、その昔、南沢又の南舘に建立されていたとも、泉乙天堂に建立していたとも伝えると記す。
 八幡神社や太子堂、泉澤山久盛院の説明される移動地を、地図上にプロットしてみる。
 泉乙天堂は、この新しい地の八幡神社を西に進んだところだ。大仏地内は、繰り返しになるが飯坂街道から刑務所通りに入る入口あたりから泉支所あたりの南側。
 住所等から公民館も含んだ辺りを舘としたが、案内板では現在の久盛院が桜本舘だとしているようだ。

 なお、南舘は、先に整理した「南沢又城」あたりも含んだそこから南東あたりの地区だ。公民館前の案内板では、「南沢又城」は「西原舘」となっていた。その西原地区の舘という感覚なら、南館地区はその南側の地区ということになろうか。
by shingen1948 | 2011-01-26 05:15 | ◎ 地域散策と心の故郷 | Comments(0)