地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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飯坂散歩⑧:飯坂古舘あたり

 八幡神社から駐車場に戻る時に、家人に「飯坂古舘に行ってみたい」と言われて、そちらに向かう。
 舘として見ると、確かに東・南・北の三方が絶壁になっている。東方には摺上川も流れていて、自然の要害となっている。
 案内板からは、明治時代以降、この辺が中心地になっていたことが伺える。今でこそ、この近くの公共の施設は消防署だけだが、この公園も、飯坂小学校→郵便局→電報電話局→警察署として利用されていたようだ。車を置いてきた駐車場も、飯坂支所だった。
 ここが飯坂古舘だったということを意識しないと、この土地利用は理解できない。

 この飯坂古舘については、先に「飯坂古舘は伊達朝宗第四子為家が築城」として整理している。
 ただ、この時点では、飯坂氏14代宗康氏の菩提寺とされる天王寺との関連を意識していなかったようだということが分かる。天王寺は、ここから北西1kmの山裾にある。最近は、昨年夏に散歩したが、まだ整理していない。
 また、八幡神社に行ってみたら、ここでいう関連はなかったとしていたことを付け加えたい。
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 ここで気になっていたのは、東側の消防署奥の神社だ。小心者で消防署を横切れなかったが、今回家族連れを強みにして、この神社を確認した。笹でお祓いをしているのが印象的だった。


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 もう一つ印象的だったのが、堂々と熊野大権現を掲額していること。
 明治の分離政策に引っかからなかったのか、その後本来の名称に戻したのかは定かでないが、可能性としては、大権現の名をそのまま使い通したということではないかと思う。ご本尊の仏様は分からなかったが、これが今回の自分だけの満足。

 天王寺とのかかわりも意識して、もう一度飯坂古舘の主を簡単に整理し直しておく。
 飯坂氏の祖は、念西の4男為家氏とされる。為家氏の4代政信氏の代に飯坂を号したとか。
 よく特記されるのが、戦国期の当主14代の飯坂右近将監宗康氏だ。
 宗康氏は、永禄年間(1558-73)には、ここ飯坂古舘に居城し、当時米沢城を本拠とした伊達16代輝宗、17代政宗に仕えたという。そして、氏の娘は、政宗の側室となり、飯坂の局と呼ばれたとのことだ。後に、政宗の長子で伊予国宇和島城主となる秀宗を生んでいるとか。
 なお、宗康氏には男子が無かったので、この娘と政宗との間にできた子である権八郎宗清が飯坂の名跡を継いだという。ただ、その宗清にも子がなく、その後も桑折氏などから次々に養嗣が入るが、寛文中に飯坂家は断絶したとか。
 宗康氏は、天正17(1589)年にここで没したとのことだが、その菩提寺が天王寺だとか。

※ 1/14に付け加える。
 熊野大権現について、「飯坂温泉観光とマップ寺社仏閣」に、次のような情報があるのを見つけた。 
 現在飯坂消防署に隣接する八王子熊野大権現は、約110年ほど前、旧飯坂小学校の近くにありましたが、戦後まもなく現在の場所に移動しました。
 古舘地内で少なくとも3回移動しているといわれています。昔は現在の花水坂駅辺りから立町、古館にかけて立派な鳥居や参道が整備されていました。

 地元の生活に密着した信仰であったことと、この神社の移動の様子が読み取れる。
 もう一つ想像できそうなのが、八王子熊野大権現ということ。このことから、熊野大権現信仰から王子信仰との習合が想像され、それが八王子権現と結びついて、病気を払う力をもった霊威あらたかな神となって、この地に残っていたのではないかということが想像できる。
※ 1/15に付け加える。
 地元民でない者には、「飯坂温泉観光とマップ寺社仏閣」の「旧飯坂小学校の近くにありました」という情報は、現飯坂小学校を想像してしまいがちだが、旧飯坂小学校は、この公園内だったはずなので、古舘内での何回かの移動と読み替えるべきことに気づく。
 
by shingen1948 | 2011-01-13 05:36 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)