地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「もう一つの奥の細道」28~本宮駅から黒塚までを整理して

 子規は、南杉田の遠藤翁を訪ねた後、子規は紹介された宗匠を訪ねていないとした。この時に少し気になっていのが、次の福島で小川太甫を訪ねたとする資料があることだった。そのことについて、「福島市史」資料Ⅶにこの事についてふれている箇所があるのをみつけた。
 「はて知らずの記」に「福島の某屋に投ず。亭主太甫氏俳譜を能くす。」とあるその太甫氏を、地元資料で確認したということらしい。それで、この某屋亭主太甫氏が、旧派俳句をよくした小川太甫氏という方だということ分かったっということらしい。ただ、それ以上を知るすべはもうできないとも。その地元資料についてもふれてはいない。
 少なくとも、この方は紹介されて訪ねた宗匠ではないのではないかと思われる。宿泊した主人が俳譜を能くした方だったという関係性とみてよいのだろうと思う。

 子規は、黒塚を訪ねた後も地元の方との交流は続く。この方々の関係性と同質のものだと思われる。
 子規は、黒塚を訪ねた後、橋本の茶屋で休む。「はて知らずの記」でも、その主人が俳句をたしなむ方であるようには描いているが、「正岡子規の福島俳句紀行」では、より詳しく紹介されていた。 それによると、この方は、二本松町根岸の方で、油屋を営んでいたが、店をたたんで粗末な茶屋を開いた方とのことだ。
 その方との俳句談義の中で、矢張り俳諧に造詣の深い油井根岸の櫛見青山という方が紹介されたとのことだ。子規が満福寺を訪ねたのは、その方の紹介とのことだ。
 満福寺の住職蓮阿という方は、当時67歳で連歌を好み、子規と出会って翌年にはなくなられたとのことだ。子規は、この方と縁台を庭に広げて語り合ったとか。

 ここで確認したかったのは、紹介された宗匠を訪ね歩くのは、南杉田の遠藤翁までということだ。
 その後訪ねる方も、確かに旧派の俳句などをたしなむという事ではある。しかし、それ以降の方々は、旅での偶然の出会いの中で深められた交流ということだ。
 紹介された宗匠ということとの違いは、宗匠という権威とは遠ざかるということだ。日常の素養として旧派の俳句に親しんでいた方々ということだ。
 福島の某屋の亭主太甫氏との出会いは、この交流の延長線上にある。したがって、この方についての資料が乏しいのは当然の事なのかもしれない。

 子規は、紹介状で出会った地域の有力者、地域の著名人、俳句に長じた方との交流より、普通に生活している名も知らぬ方との出会いが、心に響きはじめているようだ。
 この本宮駅から二本松駅までのフレームで、旅での交流のあり方が見えてきたということのようだ。後で明らかになる旧派宗匠を否定的にみる見方は、この辺りで確立されたように思えてくる。
by shingen1948 | 2010-12-26 05:42 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)