地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

里の霊山寺:「宮脇遺跡」第5次調査現地公開説明会⑥

 石垣がみつかった空間から降りて行くと、その先に日枝神社がある。
a0087378_9502953.jpg
 何時でも遺跡の周りを確認してから説明会に参加するので、この日枝神社の周りは何度も確認している。ただ、まだ意識の広がりとして連続的にこの風景につながっていたわけではなかった。


a0087378_9514832.jpg
 神社の右側には、霊山碑がある。これは、白河藩主松平定信の建立とのことだ。
 「史跡名勝『霊山』」では、次のような南朝評価の一環としての経緯が説明されている。
 定信は、南朝の結城宗広の忠節を伝えようとして、「感忠銘」の題字を揮毫し、儒者広瀬典に撰文させて白河市に大磨崖碑を作らせた。その後、1817年に、同様に北畠氏を称えて、ここに「霊山碑」を建てた。

a0087378_1012843.jpg 
 神社の左奥には、石塔群があって、この左側の細道が日枝神社から「宮脇遺跡」に続いていたという広がりだ。
 報道によると、この宮脇遺跡周辺には、12坊が存在していたとのことで、その中の一つの坊である学頭坊が、日枝神社の後ろ辺りだとの言い伝えがあるとのことだった。


a0087378_1031867.jpg
 「史跡名勝『霊山』」の12坊の解説を確認すると、学頭坊は日枝神社(二の宮)の前にプロットされる。更に、学頭坊の東側に「撞鐘堂」がプロットされる。
 平成20年に頂いた宮脇遺跡周辺の中世遺跡を記した地図の宮脇遺跡近間の部分に、それをプロットして見ると、こんな感じらしい。

 なお、同誌では、12坊のうち11の坊は特定されているとしている。その坊は、宮脇遺跡の東側の道沿いにプロットされている。地名等も根拠にしたものだと思う。
 
 今年は、遺跡の周りの様子と見比べながら、その広がりの中での宮脇遺跡を捉えられてきたなという思いがある。
by shingen1948 | 2010-12-16 10:06 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)