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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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霊山寺縁起と天海僧正:「天海僧正両親の墓」(龍興寺)に立ち寄る⑤

 漠然と、福島の寺の盛衰も、その時代時代による教団の盛衰と無縁ではあり得なく、その影響を受けながら、歴史を刻んでいるだろうとは思っている。また、霊山寺は天台宗の寺であるということも知っている。
 更には、昔からの天海僧正の名も知っていた。そして、高田の地と無縁というわけでもない。
 ただ、これ等はそれぞれがばらばらの状態で、結びつくという感覚を持ち合わせていなかったということだ。
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 ふくしま文庫「ふくしまの寺院(吉岡棟一著)」では、この結びつきを次のように表記される。
 天台宗復興を狙っていた福島市上鳥渡の観音寺は、保原町の板倉半右衛門、霊山寺の祢宜大和守と共に、東叡山に天海を訪ねて助力を請うて、伊達郡に霊山寺を復興させると同時に、福島市の薬王寺、円満寺などが漸時勢力を復活し、本山派の修験が多くなった。

 興味のあった霊山寺の回復とかかわる出来事が、結びつけているということだ。慶長年間(1596~1614)の寺請制度が定まる時期とのかかわりらしい。

 「霊山寺縁起」の時系列を追うとその事情が見える。
 会津では考えられないような蒲生氏の破壊活動と山上の大宮焼失がある。そして、その後の上杉氏は特別な取り立てをしていないという状況があっての出来事という事のようだ。
 はじめの頃は、禰宜・寺僧ら参府し、検使が下向するのだが、上杉氏の対応が悪くて不調に終わるようだ。伊達氏、蒲生氏、上杉氏の権力者としての事情が感じられる。
 寛永年間(1624~43)には、代官古河善兵衛が村民の一向宗転宗を強行し、山王社の破棄も企画するということが起きる。
 霊山寺の宥源は、これを天海僧正に報告しようとしたが、その経緯の中で善兵衛が破棄中止と旦那返還を申し出て、二の宮と霊山寺の再建が成るという経緯があるらしい。
 天海僧正に謁見もかなって、装束、法流相続が許可され、東叡山(寛永寺)の末寺になって代々住持を任命されるようになるという経緯をたどるようだ。
 その後、寛文5年(1665)了山によって「霊山寺縁起」ができ、享保3年(1718)日光山(輪王寺)門跡筆の額を拝領する(町史では、天台座主筆勅額の奉納との表記)ということで、天台宗としての経歴が整理されることになるようだ。

 この立場からは、蒲生氏と共に、西根堰の功績で有名な代官古河善兵衛氏もまた、その裏面史を綴ることになる。
by shingen1948 | 2010-12-08 05:07 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)