地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「天海僧正両親の墓」(龍興寺)に立ち寄る③

 昔から、天海僧正の名も知っていたし、この辺りにもよく来ていた。天海僧正の名をつけたお菓子を食べたこともある。それでも、この龍興寺に立ち寄ったことは無かった。

 興味を持つようになったのは、霊山寺とのかかわりだ。
 先月27日に、宮脇遺跡発掘調査現地説明会に出かけたのだが、この霊山寺は天台宗の寺である。当然、江戸期にはこの天海の影響を受けることになるらしいのだ。知っていた方が興味が深まると思ったのだ。

 天海僧正について「うつくしま電子事典」では、次のように紹介している。
 天海は、徳川幕府の基礎をつくった家康、2代将軍秀忠、3代将軍家光につかえた僧侶です。
 僧侶といっても日本全国の政治や宗教のあり方を決める相談役でした。織田信長に焼かれた比叡山を元に戻したり、日光に家康を東照大権現としてまつったりしました。現在も全国各地に置かれている東照宮は、天海の理想をあらわしたものです。
 また、上野の寛永寺を建てたことでも知られています。一方で幕府により罪に問われた沢庵や東源などを救っています。

 矢張り、純粋に宗教家としての魅力というのではない。持っている知識を武器に、時の権力者と結びついて、影響力を行使した方ということのようだ。
 「会津美里町ポータルサイト」によると、会津の葦名氏と深い関わりを持っていたが、その葦名氏が伊達政宗に敗れると、会津から離れ関東方面で活躍したという。
 天正18年には、天海と名を改めて関東の天台宗の中心僧となり、その後、徳川家康に仕えることになったという。
 家康の死後は東照大権現という贈号と日光山への改葬などを主導したり、寛永寺の創建などに携わったりして、江戸初期に幕府に大きな影響力を持った僧だったということだ。
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 この寺の観音堂には、会津33観音巡禮札所番外「浮身観音」の案内板が建つ。
 天海僧正の幼少時の修行と由緒地「浮身」の観音とが結び付き、その僧正の母が留めおかれた観音という結び付きを説明する。
 浮身観音は、本尊である十一面観世音菩薩の別称で、天海が幼少の頃、漆原と永井野の村境で感得したものだというのだ。

 寺にかかわる散歩では、福島の地であっても、無視できないぐらい強い影響力を持つ方らしい。
by shingen1948 | 2010-12-06 05:32 | ◎ 信仰と文化 | Comments(0)