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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「もう一つの奥の細道」⑯~「飯坂温泉」

 鯖湖湯前の子規の句碑を整理したつもりでいたのは、最近飯坂を散歩する時には、何となく明治26年夏を意識していた。古い建物や風景に出会ったり、出来事を確かめたりした時の基準をこの子規来福より先か後かを確認していたように思う。
 飯坂の散歩の整理の視点は違っていても、どこかに子規が見た風景とのかかわりを意識していたのだ。
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 とりあえずは、「鯖湖湯前の子規の句碑」の写真を張り付ける。
 与謝野晶子と一緒の句碑というのは、意図的なのか偶然なのかは分からない。
 多分、子規が知ったらいい気持ちはしないだろうなと思う。「坂の上の雲」のホームページには、与謝野鉄幹と子規との対立について取り上げている。
 今回の「はてい知らずの記」を追う散歩の延長線上には、仙台の「南山閣」がある。子規は、そこに友人鮎貝槐園を訪ねるのだが、その鮎貝槐園と与謝野鉄幹は一緒に旅をしていたと言われているらしい。ただ、この時に与謝野鉄幹とはすれ違っているとも聞く。

 その「はて知らずの記」によると、子規は文知摺観音までで体調を崩し、炎熱に堪へられずに人力車で飯坂温泉にやってくる。
 着いた旅宿については、その宿の庭前に今を盛りと山吹が咲き出していたということしか分からない。
 
 山吹のみな月とこそ見えにけれ

 湯に入ろうと外に出ると、雨が降り出していた。「はて知らずの記」には、その浴場が2箇所あったと記されている。それで、これが湯沢の共同浴場であったことがわかる。
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 「浴場は2か所ある」とした湯が、当時の「鯖湖湯」と「透達湯」だ。温泉神社を挟んで南側が「鯖湖湯」だった。現在足湯になっているあたりだ。現在共同浴場「鯖湖湯」と称されている湯が、当時は「透達湯」だった。

 子規が訪れた時には、位置的には現在の足湯の場所に「鯖湖湯」があった。建物としては、現在の「鯖湖湯」と同じ形だった。この改築が、明治22年(1889)とのことなので、子規が来る4年前だ。 この建物を、我々は目にしている。これが取り壊されて、旧「透達湯」の所に、今の「鯖湖湯」が建て替えられたのだ。

 子規は、鯖湖湯に入ったとされるが、本当は「鯖湖湯」か「透達湯」のどちらかは明らかではない。ただ、子規は新し好きだったと想像し、「透達湯」は、主として地元民が入っていたのではないかと考えられることがあって、旧鯖湖湯の方を選んだのではないだろうかと想像するだけだ。

 風呂は、かなり混んでいて、芋洗い状態だったらしい。岩代国飯阪温泉三句が、記録されている。
 夕立の下に迷ふや温泉の煙
 夕立や人声こもる温泉の烟
 夕立や人声おこる温泉の烟

 「はて知らずの記」も子規の句碑も、そこから次の一句選んで記したということのようだ。

 夕立や人声こもる温泉の煙
by shingen1948 | 2010-11-26 05:27 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)