地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン

「もう一つの奥の細道」⑬~「信夫(忍)の里」④

 文学を専門とする方は、文知摺観音を訪れた事が福島俳句紀行中の子規の中心と捉え、信夫山に立ち寄ったことについてはそれほど着目しないようだ。
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 例えば「正岡子規の福島俳句紀行」では、「福島の旅籠に泊まり『見下ろせば月に凉しや四千軒』と詠んだ。」として、信夫山に立ち寄ったことを省略して表記する。
 しかし、「見下ろせば月に凉しや四千軒」は、信夫山公園から月明りで実際に見た景色として捉えている。散策をするものにとっては、実際に眼にしている風景ということが重要な事だと思っている。
 この「四千軒」という表現に、たったそれだけという「さびれた」風景を感じるのは同じだが、その解釈に違いが出てくる。このさびれた感じを、子規の故郷に比べたさびれとすることに抵抗があるのだ。
 全国有数の養蚕業が盛んで、金融的にも相当に経済状況が動いているのに、それでも四千軒しかないという事ではないかと思うのだ。

 この地は大火からの復興を意識していたという事を、子規が感じていたかどうか分からない。しかし、近代化という大きなうねりの中で、この地が整備され始まっていると言う事について、肌で感じていることは分かる。この地が、当時中心的地位にあった養蚕業の伝統的な生産地である事も知っているはずだ。
 少し後の時期になるが、近代化のうねりは、福島監獄署・日銀などの結構大きなものが仙台より早くやってきているという状況にあったことも考慮すべきだと思っている。

 子規の来福の時期、その割にこじんまりしていたのは、養蚕業が伝統的に盛んだったために家内工業的な組織ががっちりと固まってしまっていたからのようなのだ。そのために、近代工業化がやや遅れた状態にあったということのようだ。
 確かに、新しく近代的な設備を整えるという点では遅れてしまっている状態だ。しかし、考え方を変えてみれば、近代工業化しなくてもこの時代の日本有数の生産に間に合う程、家内工業的な組織が確立されていたということでもある。
 子規が感じた「さびれ」は、そういったこの地の変遷にかかわる感覚なのではなかったかと思うのだが、どうだろう。

 もう一つ見逃せないのが、芭蕉は「忍を求めて」文知摺観音に立ち寄るが、子規は「忍を求めて」信夫山に登り、それから文知摺観音に立ち寄っているということだ。しかも、ここでの子規には、神尾氏とかかわろうとしたような旧派宗匠とかかわろういう雑念が無いということもある。
 子規は、当地についての認識は芭蕉よりも深いのではと考えるのは、言い過ぎだろうか。
by shingen1948 | 2010-11-23 05:48 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)