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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「もう一つの奥の細道」⑫~「信夫(忍)の里」③

 昨日、「坂の上の雲」の再放送を少し見た。最近、一度見たことのあるものでも、新鮮に見られるようになってきている。物忘れという言い方をする人もいるが、現象を積極的に受けとめる。

 その中に、1883年(明治16年)に秋山真之が松山中学を中退して上京する場面がある。近代化された風景に驚き戸惑う姿を、実写のフイルムと重ねて表現されるのだが、その中で、大量の人力車と荷車が動き回っている実写の風景があった。
 明治26年は、そこに描かれた近代化の波が、片田舎のこの福島にも押し寄せてき始めた時代だったらしい。
 福島史資料叢書の新聞記事をめくると、明治25年12月時点の駅前の荷車と人力車の数が出ている。人力車は1918両で、荷車13822両ということだ。これは、子規が福島にやってきた前年なので、数は多少違うだろうが、駅前は、かなりの賑わいではあったようだ。
「もう一つの奥の細道」⑫~「信夫(忍)の里」③_a0087378_733475.jpg
 ただ、この時点では、「はてしらずの記」で近代化の象徴的な風景とした「鉄道の線は地皮を縫い、電信の網は空中に張るの今日」というところまではいっていない。
 福島の電灯は、明治28年9月営業開始であり、常夜灯は、明治30年という事だ。電話開通は、明治40年だ。
 子規が福島駅に降り立った時、駅前の道は立派に開通して、その道のむこう端には新しく警察署が新築されていた。しかし、「電信の網は空中に張る」という近代化の象徴である電信柱と電線という風景はまだだったということだ。
 それでも、「福島の建物」で整理してみて分かったのは、その数年後には多くの近代化を象徴する建造物ができあがっているということだ。

 この当時の福島は、大火からの復興と近代化という大きなうねりの中にあったと思われる。
by shingen1948 | 2010-11-21 07:38 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)