地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「もう一つの奥の細道」⑨~「文知摺観音」③

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 資料館で、古寺を訪ねた絵画が展示されていた。とりあえず見てみようと思っただけだったが、その中に「実方の墓」があるのをみつけた。題は「樹間斜光」、子規を追ってみて、その特色が現れていると勝手に思っている所だ。

 以下は「樹間斜光」の解説文だ。


 藤原実方は、「望月のかけたることもなし」と歌った藤原道長の時代、円融・花山・一条朝に仕え、清少納言とも恋愛関係のあった風流の貴公子。中古36歌仙の一人で、その歌は「拾遺集」以下の勅撰集に67首も入集している。
 彼が、長徳元年(995)、左近衛の中将の栄職から、陸奥守に転補されたことについては、藤原行成との確執による左遷説があり、長徳4年(998)、在任中の死についても、名取郡笠島の道祖神の前で下馬しなかったため、神の怒りにふれて落馬、それがもとで死んだという伝説が残っている。
 しかし、現在の学説では、往時のみちのくが政情不穏で、陸奥守に中央の強力な官僚の赴任が要請されたため、実方に白羽の矢が立ったのだという。
 遠いみちのくに客死した、この多感な詩人については、後代の人も心を寄せ、久安の頃(1147頃)、若き日の西行は、行脚の途次にその墓に立ち寄り、
 朽ちもせぬその名ばかりをとどめおきて枯野のすすき形見にぞ見る(新古今集)
の一首を手向け、芭蕉も、元禄2年(1689)、仙台に入る直前、
笠島はいづこさ月のぬかり道」の一句をのこしている。
 今、笠島道祖神の近く、深い竹林の奥にその土墳がある。私共は、仏の道行脚の途次、西行にならってその墓に詣でた。周りには、ヤブコウジの赤い実をいっぱいつけていた。
 初蝉芭蕉の聞きし道ならん  達道

 その芭蕉翁は、「実方ゆかりの笠島は、どの辺りなのだろうか。このところ降り続く五月の雨で、道はぬかるんでいる。疲れ切った体では、尋ねていくこともできなかった」と記す。
 芭蕉は、行きたかったが遠くから見て通り過ぎてしまったものである。子規は、この実方の墓に実際に訪れる。そして、その前に「葛の松原」に立ち寄っているということだ。
 子規は、芭蕉翁の心情を忠実に深めて理解するために、芭蕉が立ち寄らなかった所まで丁寧に立ち寄っていく。この姿勢は、ここ文知摺でもいえることだ。
 パンフレットによると、文知摺り染めの「しのぶくさ」は、万葉の昔はしのぶの里に野生しており、衣の模様に利用されたが、今は希少種になっているとのことだ。
 子規は、夕暮れて、その「信夫の里」の象徴的な山である「信夫山」を散策してから、この文知摺を訪れている。
by shingen1948 | 2010-11-16 07:59 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)