地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「もう一つの奥の細道」⑦

 子規の旅が「奥の細道」と距離感を持っているような表現になるのは、飯坂あたりからだ。
 その子規も、本宮から文知摺を訪ね、飯坂に向かうまでは、忠実に芭蕉翁の世界を追っていることが分かる。それどころか、芭蕉翁の心情を深めて理解するために、補強的な散策も試みているように思う。
 例えば、信夫摺りを訪ねる前に「シノブグサ」とのかかわりを意識するのだろう、信夫山を訪ねたりする。そういった体験過程を積み重ねた上で、福島宿からほぼ芭蕉の足跡通りの道筋でこの文知摺を訪れたと思われる。
 予定外だったのは、暑さで体調を崩してしまうというハプニングだ。道自体は整備されていたのだが、途中で木陰に休むというような所が無かったという。
 子規は、この文知摺観音にたどり着くのだか、ほっとしたのはここの木陰だろうか。
 そこで見た風景は次のように紹介される。

 正面に桜の木が高く植えた下に蕉翁惹摺の句を刻んだ石碑がある。
 其後に柵で囲んだ高さ一間、広さ三坪程のところに、出ている大石が忍摺の名が残ると聞いた。
 その左の石階を登ると、観音堂はそれほど壮大さはないが彫鏤色彩を凝している。昔のさまは偲ばれる。
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 子規が見た風景は、現在見ている風景と似たような状況のはずだ。これは、芭蕉が見た風景とは少し違う。
 ここは、「石半土に埋てある」この石は、「昔は此山の上に侍し」という古くからの言い伝えを信じて、何度か元に戻そうと試みられたのだ。
 元禄7年頃には、時の領主であった堀田氏の弟正虎が、元の位置に引き上げるために石を掘り起こそうとしてしくじっている。
 そして、明治18年には、時の信夫郡長であった柴山が、鎌田、瀬ノ上、岡山などの農民を使役して堀上げようとし、これまたしくじっている。その結果として、石の周りが掘り下げられてしまったのだ。
 元々は南向きだった観音堂も、この時に西向きにせざるを得なくなったという。
 子規の来福は、その8年後の明治26年なので、この風景を見ていることになる。
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 このことについて、子規は次のようにふれている。
 「某殿が、この古くからの言い伝えを信じて、数多の人夫をつのってこの石を掘り起させようとしたが、元々小山のような大石だった。掘れば掘るほどその大きさが実感され、人力では動かすこともできなくて、今はもてあまし、中頃にしてその工事を止めたが、石は大体現れていて、柵で今のように結いめぐらせていたが、昔の趣を損っていると雅人は歎いている。」

 しかし、現在は、その郡長柴山の仕事を称える碑が正面にみえる。
by shingen1948 | 2010-11-14 05:07 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)