地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1 2
3 4 5 6 7 8 9
10 11 12 13 14 15 16
17 18 19 20 21 22 23
24 25 26 27 28

「もう一つの奥の細道」⑤

 子規の時代、桑折街道は整備されたばかりの新しい道路だったはず。

 「葛の松原」行政区では桑折町だが、その少し手前の「橿原神社」あたりでも、子規は開発の息吹を感じたのではないのだろうかと思う。
a0087378_523987.jpg 
 この神社は、福島の東湯野地区の村社だが、明治6年(1765)創建との事だ。子規が通った時代は、真新しく出来たてだったということになる。
 この神社、名前の通りとすれば「橿原神宮」を意識したと思われる。
 半沢氏のフィールドワーク地図「国家神道の歴史をさぐる」のメモには、「祭礼4月3日、祭神神武天皇とする(神官桑折の国学者の久保篤見)三条実美の神額というが当時三条は病に伏していた」とある。
a0087378_535167.jpg
 この街道沿いの神社の参道風景は、今では目立たず、マイナーなイメージさえも漂うが、当時は時代の流れに乗り遅れまいとする地域の意気込みが感じられただろうと思う。
 この街道とクロスして、この神社に向かう南側の道筋には「北向稲荷」があって、半沢氏のメモでは、「神官によって祭神焼かれる」と紹介され、西根堰を越える橋を大和橋と紹介される。このメモにはないが、昭和27年には、この「北向稲荷」辺りの上岡遺跡から、先に「土偶展」に合わせて整理した土偶が出土している。これらは、その村社と桑折街道を意識したこの道筋を整備するという地域の意識の関連性から起きたできごとと想像する。

 桑折街道を通りすぎる者にとっては、行政区の句切れの意識はないので、子規はこのあたりから開発の息吹と賑わいの連続性と感じながら進み、松原の茶屋で一休みしたのではないかと想像する。

 ※ 「橿原神宮」 
 明治21年(1888)に畝傍山の南東の橿原宮跡の考証がなされ、翌年5月に民間より神社創建の請願が政府に出され許可となり、明治天皇は旧京都御所の賢所、神嘉殿を献進、翌1890年に社殿年造営なって4月2日に鎮座、官幣大社とされた。(日本大百科全書より)
by shingen1948 | 2010-11-12 05:10 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)