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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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「もう一つの奥の細道」③

 子規が立ち寄った「葛の松原」とかかわって、この奥州の辺土にあえなく身を終わられている都で有名だった方というのは、覚英僧都という方だ。
 この「葛の松原」については、先に「奥の細道」をたどって立ち寄った時に整理している。その時の案内板の説明から、この方にかかわる情報を抜き出して整理しなおす。

 この方は、西行選集抄第9巻末の南都覚英僧都事に記されているという。
 そこには、関白藤原師通の4子で、二条関白富家入道弟という経歴と、「花をのみ惜みなれたる美吉野の木の間に落つる有明の月」という名歌をよんだ方との紹介があるとのことだ。
 この方は、奈良興福寺の学僧でもあり、東大寺で具足戒を受けて若くして権少僧となって将来を嘱望されていたという。西行上人とは、藤原一族の学問所である勧学院で共に学んだ間柄ともいう。
 それが、保延3年(1137)旧8月夜半22歳の時に発心し、道を求めていずこともなく緒国行脚の旅に出立したという。いつの頃からか、陸奥国信夫郡葛の松原に鍚を留め、この地を仏法有縁の地と定めて行乞三昧に勤めていたが、保元2年(1157)2月17日41歳で入寂したとのことだ。

 西行上人がこの地を通ったのは、この方が亡くなった後で、「これ實に奇遇というべし」と西行上人の旅紀行の中に自ら記されているとのことだ。
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 このことが紹介されるのは、覚英入寂の約600年後のことで、福島藩主板倉公重臣河原栄機が、明和5年(1768)に覚英の徳操を讃えて碑を建立したことによるという。
 河原氏は、退隠して江戸にいたが、ある日、選集抄で覚英の事蹟を知ったという。それで、この地を訪ねてみたら、境内にある「葛の松原辻人の里二條関白家入道御弟覚英僧都入寂の旧蹟」の碑が風化していたとのこと。松原寺の自明上人と相談して、この碑を建立したということだ。
 碑には二つの和歌が刻されているとのことだ。
 世の中の人には葛の松原と呼ばるる名こそ喜しかりけれ
 なき跡も名こそ朽せね世々かけて忍ぶむかしの葛の松原
 
 上の句は、權上僧都覚英が残した句だ。下の句は、河原栄機の句だろうと思う。

 恐らく、子規が立ち寄った茶屋は、このことを観光資源として営んでいたのであろうと想像する。

 人くずの身は死にもせで夏寒し
 子規は、わけあって立ち寄ったとだけ言うが、この子規の句からは、「葛の松原」と「覚英僧都」を意識していると感じるのは、深読みだろうか。
 子規は、この後桑折駅から岩沼駅までとばし、「阿武の松原」を思いながらも、「実方の墓」を訪ねるという道筋をたどる。
by shingen1948 | 2010-11-10 05:02 | ◎ 芭蕉の足跡 | Comments(0)