飯坂温泉:湯野の橋本温泉
2010年 11月 01日
飯坂の和田屋という宿に着くと、ようやく寒気も収まった。最初はむさくるしい裏部屋に通され、眺めが悪く一寸の景色も見えない。やっと夕方には涼しく眺めも良く表通りが見える部屋に移ることができた。そして、旅の疲れをとるため鯖湖湯の共同浴場に入浴した。
ところが、この和田屋さんがみつからない。
手持ちの古い地図で和田屋を探すが、そこにはなさそうだ。自分で探すのを諦めて、飯坂に出かけてみた。事情を話して心当たりを訪ねると、堀切邸に古い旅館が描かれた地図があるのでそれを確かめたらと紹介される。それでその地図を暫くじっと眺めさせて頂いたが、飯坂温泉の「和田屋」はみつからない。
「ワダヤ」なら湯野にある「綿屋」ではないかともいう。
その可能性もない訳ではないなと思いつつ、それなら二つの事が気になる。
その一つは、子規は、26日の朝に小雨降る中十綱橋まで散歩に出るが、そこには「旅宿を出でゝ町中を下る事二三町にして数十丈の下を流るゝ河あり。摺上川といふ。飯坂湯野両村の境なり。」と書いている。旅館から十綱橋まで2~3町なければならないのだ。ところが、この「わたや」なら目の前が十綱橋になってしまう。
もう一つ気になるのは、例の「家のあひから流れ落ちる滝」だ。湯野側の景色とし描写されていると思うのだ。
今もこの「和田屋」は不明だ。
しかし、この確かめが無意味だったとは思わない。それは、「綿屋」はこういう話題の時に思い浮かぶ一つの旅館であるということが分かったことだ。それが、先に整理した橋本温泉としての伝統ということとかかわるのだろうと思う。
更に、この橋本温泉「綿屋」にこだわったことで、橋本温泉の原風景が想像できたのではないかと思えるのだ。
橋の上からこの橋本温泉をみると、何となく斜めのラインが気になってはいたが、それほど気にはしていなかった。最近想像ついたような気がしている。
最近「綿屋」にこだわりながら絵ハガキの情報と見比べていたのだが、共同浴場へ降りて行く階段のラインと重なるように見えてきたのだ。そのラインと共同浴場との位置関係を確認すると、現在はそこに旅館の建物がのっているようなのだ。改築を想像すれば、それが納得できる。
これが、摺上川から見た橋本温泉付近だ。ここに写る斜めのラインと、共同浴場への道の想像を重ねてみる。その行きついた先に、共同浴場をイメージする。ここには旅館の本体が写っているが、そこが、橋本温泉で旧「仙気の湯」の位置ではないかと思えてきたのだ。共同浴場「仙気の湯」が移動した後、それを旅館の内湯浴場として取り込んだと想像すれば納得できる。その後、新館が建築されて現在のような風景になったと想像する。ここに旅館の浴場が位置するのではないだろうか。
子規の宿泊は不明のままだが、子規が眺めた湯野側の景色が、少し見えてきたような気分になっている。