「福島と戦争」~模擬原爆(パンプキン)投下⑲
2010年 10月 08日
この形の違いは、目的の違いでもあることを確認したい。この第二の空襲は、アメリカが正確に原爆を落とす練習のためであり、戦争に勝つための空襲とはその目的が違うということだ。
郡山では数回の空襲があり、そのどちらの目的の空襲も受けているということだ。その中で、多く語られる郡山空襲は1945年4月12日の初空襲のようだ。確かに罹災状況は悲惨なようだ。
この初空襲の罹災は、死者だけとってみても460人といわれている。遺体は、戸板に乗せて運ばれたといわれている。
その内訳は、保土ヶ谷化学工場(204人)、日東紡績富久山工場(92人)、東北振興アルミ工場(47人)、浜津鉄工場(4人)、郡山駅(11人)、方八町(7人)、横塚(22人)、市内(5人)、航空隊(5人)、不明(33人)とのことだ。不明者のうち、勤労動員で保土ヶ谷化学工場で働いていた白河高等女学校(現在の白河旭高校14人、郡山商業学校(郡山商業高校)6人、安積中学校(安積高校)5人名、安積高等女学校(安積黎明高校)1人の計26人が死亡したという。住宅焼失・倒壊500戸以上。
別情報で、11時15分から1時間に渡り保土ヶ谷化学工場と日東紡績富久山工場二つの工場を襲撃。全体で死者504名、負傷者1000名というのもみるが、多くは上記のような被害状況を記録する。
この空爆では、投下されるのは爆弾だけでない。焼夷弾なども落とされていて、郡山駅前は焼野原だったというような別の被害描写も見る。生々しい悲惨な情景描写もみる。
富久山工場では、ヘルメットをかぶっていた首が飛んだり、軍靴を履いたままの足が飛んでいたりしたとか、爆風で飛ばされた死体がごろごろと散らばっていたとか、……。
郡山市史の「郡山空襲の記録」では、次のように記録する。
昭和20年4月12日 午前9時5分警戒警報あり。
情報「関東東北より進入せる敵機は福島県南方洋上北進中なり」。
二報「敵機は福島県東方洋上旋回中なり」
三報「敵機は東方へ脱去せり」
午前9時55分警戒警報解除せり。
午前11時20分警戒警報発令。
同11時25分空襲警報、同時に敵機北方より9機郡山上空に進入、爆弾数発。
保土ヶ谷工場へ投下せり。
約5分後、東方より11機、13機、9機、13機、9機、13機、11機と7回に
わたる、梯団式5分置き進入。富久山工場、アルミ工場、保土ヶ谷工場を爆撃、
及び北町付近、方八町、横塚を爆撃焦土と化し、戸数約150戸以内。
敵機延べ数百三十六機なり。
郡山市への初空襲のため市民多数の被害あり。
軍隊及び付近の警防団、須賀川、三春、本宮、福島より応援を受け、午後四時
頃鎮火せり。郡山上空進入合計十三回なり。鉄道貨物ホームにも被害あり。
記載者・小川知次(郡山自動車学校・故小川欽一氏(元郡山消防団団長)の厳父)
先に見た二つの分団記録は以下のように記録する。
第一分団
△ 4月12日の空襲=豊田村から借り入れ中のポンプ車で延焼中の保土ヶ谷工場へ出動したが、途中東橋付近が通行不能の状態で後退。東橋下で延焼中の民家の消火活動に取り掛かったが、B29の再襲来で待避。
第ニ分団
△ 4月12日の空襲=駅前一帯が爆撃により火災。この消火に当たる。
空襲の最後まで班長が交代で火の見櫓(現在の駅前部詰所)の上で警鐘を乱打し続けた。
この日、近くの本宮町でも、製糸工場のグンゼが爆撃を受けている。爆死したのが、約500名という情報もある。
確かに第一の目的の空襲は悲惨だ。
そのために、比較的軽微な被害である第二の目的の空襲は、その陰に隠れている。けれども、たかが練習の為に何故殺されなければならなかったのかという無念さが残るという別質の被害だ。第一の空襲と同等に着目していくべきではないということを確認したかった。勿論、命の重さは同じだということもある。