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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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平成22年 桑折西山城本丸跡 発掘調査 現地説明会⑨

a0087378_544987.jpg パンフレットの裏表紙は、伊達氏の居城の「桑折西山城跡縄張図」を掲げる。その伊達氏は、天文17年将軍足利義輝の命令というかたちでここを廃棄して米沢に移る。

 そう聞いて、米沢の居城は当然米沢城と思っていた。ところが、最近それが揺れているという新聞報道をみた。その報道【「舘山城(山形県米沢市):伊達政宗の本拠の可能性検証のため現地調査を開始」(『河北新報』2010/8/5)】によると、伊達氏の「居城」がどこかを米沢市が確認するらしい。
 通説は米沢城だが、米沢市教育委員会では、米沢市西部の舘山城の可能性もあるとみているらしい。今後3年かけて調査を行う予定とのことで、主として周辺調査をして、城本体との関連性を確認するらしい。
 そのように考えたきっかけが、平成13年(2001)の発掘調査とのことだ。この時に、舘山城北側に伊達晴宗、輝宗、政宗三代の支配時の16世紀頃と推測される大きな武家屋敷群が、発掘され、これが長期的に9度の増築がされた移行が認められたとのことだ。

 この館山城は、少なくとも次の16代輝宗が天正12年(1584)に、17代政宗に家督を譲って、ここに隠居していたとされている。これは、この記事のカテゴリーを「会津への道(伊達政宗)」としているが、これとかかわる。
 輝宗は、ここから宮森城へ移って二本松城主畠山義継の計略にかかったという流れだ。それを契機に、17代政宗の芦名・佐竹・相馬の連合軍と人取橋の激戦の話につながる。政宗は、この後、天正14年(1586)に二本松城攻略し、天正17年(1589)に、会津黒川城主芦名義広を摺上原で破って黒川城に入るということになる。その会津への道とつながることだ。
 もっと大きな視野では、天正19年(1591)に、ここから岩出山上に移封されるという話になるのたが、それがこの舘山城からかもしれないということだ。
 これまで上杉氏の影に隠れていた米沢時代の伊達家の歴史が、明らかになるきっかけとなるのだろうか。
by shingen1948 | 2010-09-19 05:43 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)