地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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平成22年 桑折西山城本丸跡 発掘調査 現地説明会③

a0087378_5585341.jpg 現地説明会では、西山城について、発掘の成果とかかわる要点を押さえて説明される。
 よくは知らなくてもいい。興味があるなら、ふらりと気軽に参加してと言われているようでいい。
 その説明、いつも成程と思って聞いてはいるのだが、その内容を整理しようとすると案外難しい。
 昨年の説明会で頂いた資料と、今年頂いたパンフレットを参考に、こんな話だったかなということを整理してみた。

 桑折西山城跡は、天文元年(1532)頃、伊達氏14代植宗によって築かれたとされている。その前身は、9代大膳大夫政宗が鎌倉公方軍を迎え撃ち籠城した赤館であるともいわれている。
 その植宗は、室町幕府から陸奥国守護の要職に任じられ、周辺の大名と婚姻関係を結び、この西山城で、家法「塵芥集」を制定し、租税台帳の「段銭帳」を整えるなど、東北地方最大の戦国大名になった。
 ところが、天文11年(1542)積宗は長男の晴宗と対立し、城内に幽閉されたといわれている。植宗は救出されたが、以後、伊達家はおろか周辺諸大名までも二分した合戦に発展し、その動乱は「伊達氏天文の乱」と呼ばれる大乱になってしまう。
 両者の西山城の争奪戦は7年に渡って展開するが、天文17年将軍足利義輝の命令というかたちで両者は和睦し、晴宗が家督を継ぎ、植宗は隠居することになる。その条件として合戦で両者の根拠地となった西山城と懸田城(霊山町)は破却されることになったという。晴宗は新しい本拠として、米沢に移り、植宗も頼りにしていた娘婿の相馬氏に近い丸森の丸山城に隠居する。
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 今年は、その伊達氏がかかわったであろうと思われる建物跡と、西側の虎口が見つかったという事だ。更には、その西側の虎口には、城の破棄とかかわると思われる積み石があったということのようだ。
by shingen1948 | 2010-09-12 06:03 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)