安江繁家33
2010年 08月 25日
この辺りを概観しておく。
元和4年(1618)に安江氏が再勤する。ここから寛永13年(1636)まで福島奉行と郡代を兼務し、その後郡代となる。
繁家氏の奥様が、寛永11年(1634)年8月23日に亡くなるのだが、その前の寛永元年(1624)には、繁家氏の碑を建てる関係になっている。従って、寺の創建の関係では、名目を誰にするかは別にして、実質的には監物氏がかかわっていることになる。
この頃には、根津監物氏と上泉秀綱氏次女との縁が整っていると見るべきで、少なくとも既に大笹生とは深くかかわっていたという事ではないだろうか。
監物氏は、元和2年(1616)に繁家氏が200石福島代官を辞し、嫡子繁国に家督を相続して隠居する事情を理解する立場であり、安江氏が、元和4年(1618)に再勤する時には、監物氏が視野に入っていると見るが、どうだろうか。
根津監物氏と安江繁家氏、そして安江氏と上泉氏の物語が、大笹生を舞台にして展開していた。このことが、天地人の時と深くかかわった昨年のうちに整理できていれば、もっと楽しかっただろうなと思う。簡単な検索で、安江氏とかかわる上泉氏が、この信夫の里でも輝いて活躍している姿がイメージできたはずなのだ。
時期を逃した整理になったかもしれない。
大変遅くなって申し訳ありません。この度は安江五郎左衛門を取り上げていただきありがとうございました。独学で調べてきた自分にとって、大きなご示唆をいただきました。
今は、これまで調べてきた資料の読み直しをしたり、図書館で県、市町村の近世資料を読みあさったりして、安江繁家の事績を整理しているところです。
ありがとうございました。
確実な情報が公表されていても、見落としているものがあるんですね。
なお、今安江氏を追ったことを、別観点から見直せないかという思いがあって、その切り口を探しているところです。
また、いろいろ教えてください。