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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安江繁家32

 信夫山上の碑文からは、安江繁家氏の経歴とこの碑を建てた方にかかわる情報が分かればいいと思っていた。
a0087378_5332932.jpg
 漢文が不得意なせいもあるだろうが、それよりも韻を踏んだ美文調の文章にその情感を感じる術はないと思っていた。それで、この碑の本文の情報については興味が無かった。
 しかし、確認していくと、監物氏は繁家氏の生き方に本当に感じるものがあったように思えてきている。目的としては、この碑を建てる行為を通して、誰かに何かを訴えたのかもしれないし、顕彰碑の意味合いかもしれない。方法としても、韻を踏んだ美文調の文章になるように、ひとに頼んでいるようだ。しかし、そこにできるだけ本音に近いものを表出するようにしたいという思いが込められているのではないかとも思えてきている。
 漢文が不得意なので、とりあえず原本に近いと思われる情報から、機械的に写し取っておく。印刷が不明瞭なことと、読めない所があったりしているので、写し間違いがあるかもしれない。
 ここに、ゆっくりと、この文章にかかわる情報から修正を重ねて、より原本に近い形にたどりつき、それから監物氏が描こうとした繁家氏像が感じられるものかどうかを確認してみたい。
 藤原○臣安江繁家公者越之後州之英産也年之先依太守之国替移居於奥之南而司伊達信夫之両郡代政行依倚○傳史霖蘇民之渇治功匹似於顔巷解人之愁今世難哉於爰(ここに)為達ニ全智居士供養清静僧以令読誦妙法連華経一千部忠儀豈堪比功徳不可量富散筳日彫刻頃石作一浮屠以伸供養誠如看現○○堅固法身相以縦然滄海變作桑田○斯石碑有消日、伏願居士々々憑斯聞動力列千佛之果位坐九品之蓬○夷説什麼果位説什麼連○印今月前月白風清、咄一咄、
 千時寛永元年仲夏廿八日
 (前正法山主○用於禅林陋室書焉)

Commented by MASA at 2011-11-05 12:53 x
ご無沙汰しています。安江繁家関係の情報?です。  直江兼続伝(木村徳衛著 慧文社)P573に「兼続恩顧の伊達・信夫二郡の郡代安江五郎左衛門繁次(繁家の誤植?)は、寛永元年5月28日、米沢城北万部堂において衆僧をして法華経千部を読誦せしめ、禅林寺の九山和尚は弔詞を述ぶる等、盛大の追善会を開催した。」との記載を見つけました。もしかしたら安江繁家碑の①「達三全智居士」(福島のいしぶみ)は直江兼続の法諡、②「干時寛永元年仲夏廿八日」(福島のいしぶみ)は寛永元年5月28日、③「前正法山主○用於禅林陋室書焉」(本HP)が「前正法山主九山宗用於禅林陋室書焉」としたら、禅林寺の九山宗用となることから、碑文は安江五郎左衛門が直江兼続の追善会を開催したことを表したものではないかと考えられますがどうしょうか。                       
Commented by shingen1948 at 2011-11-06 17:59
資料に記述されたことと、この碑文の内容がかかわそうだとは、誰も気づいていませんよね。
でも、直感的には、成程と思います。
すごいですね。
漢文は不得意でも、そういう視点で、ゆつくり眺めれば読み解けそうな気がしてきました。もう一度眺めてみます。
Commented by MASA at 2011-11-08 20:25 x
○「安江五郎左衛門の追善」に関する資料を調べました。以下のとおり直江兼続と九山宗用との関わりは確認できましたが、寛永元年5月28日に追善会が開催されたかについては引き続き調べる必要があります。
○安江文書(写し)です。
藤原朝臣安江繁家公者、越之後州之英産也、年之先依太守之国替移居於奥之南、而司伊達信夫之両郡代、政行依倚於傳霖蘇民之渇、治功匹似顔巷、解人之愁、今世難哉、於爰為達三全智居士供養清静僧、以令読誦妙法蓮華経一千部、忠儀豈堪比、功徳不可量、当散筵日彫刻頑石作一浮屠以伸供養、誠看現瞿雲堅固法身、相似縦然滄海変作桑田、豈斯石碑有消日、伏願居士々々、馮斯聞勲力列千佛之果位、坐九品之蓮台、咦説什麼果位、説什麼蓮台、即今日前月白風清、咄一咄、
 干時寛永元年仲夏廿八日前法山主九山雙宗用於禅林陋室書焉(印)                    

Commented by MASA at 2011-11-08 20:26 x
【続きです。】
○直江城州公略伝(今井清見著)の一節です。「三全智居士供養清静僧、以令読誦妙法蓮華経一千部、忠儀豈堪比、功徳不可量」の読み方が記されていました。
伊達信夫郡代安江五郎左衛門繁家の如きは福島信夫山上に石碑を建て其病気平癒を祈った。
(中略)
公の歿後六年目の寛永元年五月二十八日信達二郡の郡代安江繁家は米沢城北万部堂(白子神社の西隣)において公の追善会を催し、衆僧をして法華一千部を読誦せしめ
一碑を建立した。当日禅林寺の名僧九山は弔詞を述べ「達三全智居士の為に清静の僧を供養し、以て妙法蓮華経一千部を読誦せしむ。忠儀豈比するに堪えん、功徳量る可からず。散筵の日に当り頑石に彫刻し一浮屠を作り以て供養を伸ぶ云々」と伝えているが、其碑石は今日亡びて存在しない(安江文書)

Commented by MASA at 2011-11-21 22:45 x
○安江文書(写)に誤りがありましたので、訂正します。
①(誤)誠看現瞿雲堅固法身
 (正)誠如看現瞿雲堅固法身
②(誤)干時寛永元年仲夏廿八日前法山主九山雙宗用於   禅林陋室書焉
 (正)干時寛永元年仲夏廿八日前正法山主九山叟宗用   於禅林陋室書焉
○ 安江文書(写)は今井清見氏が書写したもので、欄 外のメモに「右は用紙鳥の子に記さるもの、米沢市○○ 町安江○○所持九山の真筆なり、大正12年12月29日」 と記されています。
○ 前法山主について、米沢国人記の「九山宗用」で  は、「元和9年(1623)妙心寺転住の日を迎え、上洛 法山に住し、寛永元年(1624)法勅入寺、妙心寺第  115世住持として紫衣を着用、皇位延長を祈るべき車 のとの論旨を授受した。四派交替、1年1住の法規によ り、同年退山、米沢に帰山する。」とされています。
Commented by shingen1948 at 2011-11-22 05:44
すごいですね。
漢文不得意でも、確かに「於爰為達三全智居士供養清静僧」以降の意味が見えてきました。

この信夫山の石碑は、安江繁家氏の顕彰碑と思っていたのですが、それより「伊達信夫郡代安江五郎左衛門繁家の如きは福島信夫山上に石碑を建て(直江兼続の)其病気平癒を祈った。=其碑石は今日亡びて存在しない」という石碑の副碑、あるいは、その石碑そのものという可能性が高いということなのでしょうかね。

Commented by MASA at 2011-11-23 07:25 x
○前回のコメントに誤りがありましたので、訂正します。すみません。漢文は全然ダメです。
(誤)前法山主
(正)前正法山主
(誤)皇位延長を祈るべき車のとの論旨
(正)皇位延長を祈るべき者との論旨
○直江城州公略伝(今井清見著)の一節にある「其碑石は今日亡びて存在しない」は大正12年12月に今井氏が伺った際、安江家第12代当主は石碑があることを知らなかったから、「今日亡びて存在しない」としたのではないでしょうか。堀江繁太郎氏が福島民報に寄稿した記事(昭和10年7月28日付け)にも、「安江家第13代当主が石碑あることを知らなかった」とされており、安江家には信夫山上の石碑について伝承されていなかったと考えられます。

Commented by MASA at 2011-11-23 07:32 x
【続きです】
○今井清見氏が書写した史料「兜山夜話」(国分兜山著、享和2年(1802)脱稿)には、「信夫山を御山と云仏神を祭を以てなり、然るに小山と記すは誤りなり、山上に安江氏が直江の疾病を祈る石碑あり」とされていることを引用したものではないでしょうか。直江兼続が亡くなった元和5年(1619)から約180年後の著作ですので、「直江の霊魂を祭る」の誤りであり、安江文書(写)の「頑石に彫刻し一浮屠を作り以て供養を伸ぶ」とされるのが信夫山の石碑ではないかと考えています。
Commented by MASA at 2011-11-23 08:02 x
○今井清見氏が書写した史料「異本米沢事跡考」には万部堂について、「城より北にあり、慶長十四年六月直江兼続命を○り白子社の西に建つ、東西四十五間南北四十六間四方に城土居を築き側に衆僧(二ノ丸院家)を置しむ、境内に殿堂鐘楼太鼓対面所諸番所を建てらる、茲に於て法要あり今の法泉寺北の地場なりと、(中略)綱憲公御代より殿堂毀玉うと云々」と記されています。
また、「米澤地名選(米澤地跡考)」にも万部堂について、同様のことが記載されています。
○「城下町の光景絵図による米沢」の往古御城下絵図(寛永17年・1640)、御城下絵図(承応2年・1653)、御城下絵図(天和2年・1682ころ)に白子神社の西隣に万部堂が記されています。
by shingen1948 | 2010-08-24 05:36 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(9)