地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安江繁家28

 安江繁家氏だけを眺めると不思議な出来事があった。2度の隠居と再勤、そして、それに伴う2家相続と、形式的には200石扶持だが、実質的には400石扶持という仕組みだ。
 しかし、上泉氏とのかかわりを安江氏の時間経緯に重ねてみると、自然な出来事に思えてくる。

 安江氏の娘が、上泉秀綱氏に嫁いだのは慶長3年(1598)だ。
 その後、秀綱氏が上泉家の家督を継ぐのが、慶長5年(1600)で17歳。慶長出羽戦で父が戦死したことに伴う出来事で、父親の功で1500石扶持となり直江兼続の配下となっている。
 そして、慶長6年(1601)の上杉氏減封では、500石となるが安泰だ。このあたりから、安江繁家氏と重ねてみる。
 安江氏は、この慶長6年(1601)の上杉氏減封では、200石に減封で福島に移る。
 そして、秀綱氏が、慶長19年(1614)大阪冬の陣で、鉄砲隊を率いて、鴨野の戦いで豊臣軍を破るが、その戦闘で重傷を負うという出来事が起きるのだ。
 秀綱氏は、景勝の主命によって京都で傷の療養をするが、元和元年(1615)2月14日京都において戦傷悪化により没する。享年33歳。
 その秀綱氏の家族を、安江氏が「上泉秀綱妻娘同道して安江家に引添」ということで引き取る。

 そして、次の年の元和2年(1616)繁家氏は、200石福島代官を辞し、嫡子繁国に家督を相続して隠居するのだ。
 この後、上泉秀綱長女に志駄修理義秀三男源十郎を娶せ家督相続、上泉秀富と称す、禄高300石に減禄になるという出来事が挟まる。
 ここで、元和4年(1618)の安江氏再勤の出来事が起きる。ここから寛永13年(1636)まで福島奉行と郡代を兼務することになる。この後、福島奉行郡代兼務制度の廃止により、郡代となる。
 このあたりで、根津監物氏と上泉秀綱氏次女との縁が整っている。繁家氏の奥様が、寛永11年8月23日に亡くなっているが、この出来事の前後関係は分からない。
そして、寛永16年(1638)11月28日には繁家氏は、隠居して安江監物へ家督を譲るということだ。
 ここから、安江監物氏が家督を継ぐが、次の年の寛永17年(1639)3月24日には繁家氏が亡くなっている。
 
 ここからは、勝手な推測だ。
 元和2年(1616)時点で、繁家氏がやらねばならないと考えた仕事は、上泉家の安泰にかかわる事ではなかったかと思うのだが、どうだろうか。
 そして、これ以降の出来事はこの時点で計画されたことに沿って起きるのだが、建前の武士社会に合うように、形式的に整えられて起きているという風に思うのだ。
 例えば、監物氏と二女の婚姻と二家相続の段取りも、この時点で想定されていないかと思うのだ。そのために、実質的には400石扶持を確保するためもあって再勤する。形式的に長女より次女が先の婚姻は避けながら、周囲の理解を得られる歳月をかけながら完結させていったように思えるのだ。
 少なくとも、先の嫡子繁国氏は、理解を示すことができるだろうし、実質400石は、周りから充分に理解が得られそうな事情だったように思うが、どうだろうか。
 そして、安江監物氏は、それらの繁家氏の人と采配に敬意を感じたように思うのだが、……。
by shingen1948 | 2010-08-20 05:40 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)