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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安江繁家27

 安江氏と結びつくことで、その安江氏とかかわる上泉氏が戦国武将としてかかわることは、誰しもがその情報を簡単に入手できるようになるということだ。
 本当は、戦国武将の活躍に結び付くことで、華やかな一面にふれていくことを想定して整理し始めたのだが、実際に浮かび上がってきたのは、安江繁家の気苦労だった。
 とりあえず、検索でかかる上泉氏の概略を列記する。

 慶長5年(1600)慶長出羽戦で父が戦死、家督を継ぐ。父の功で1500石を与えられて、直江兼続の配下となる。
 慶長6年(1601)の上杉家の減封では、500石に減封。
 慶長12年(1607)江戸城普請では、上杉家の中奉行として指揮する。
 慶長19年(1614)大阪冬の陣で、鉄砲隊を率いて、鴨野の戦いで豊臣軍を破るが、その戦闘で重傷を負う。景勝の主命によって京都で傷の療養をするが、翌慶長20年(1615年)京都で没する。
 長女が志田義秀三男・上泉秀富を婿養子とする。
 次女が安江監物に嫁ぐ。

 列記してみて、見えてきたのは安江繁家氏の気苦労だ。
 安江氏の娘が、上泉氏に嫁いだのは慶長3年(1598)だ。上泉秀綱氏は、天正11年(1583)生まれなので、この時15歳ということになる。
 安江氏にとっては、吾子の檀那が、慶長20年(1615)に32歳で亡くなってしまうのだ。武人としては格好がいいが、これがわが子が嫁いで17年目のできごとだ。
 多分、長女が志田義秀三男・上泉秀富を婿養子とするのも、その後ではないのだろうか。少なくとも、次女が安江監物氏に嫁入するのは、寛永16年(1639)ということで、実質的に上泉家の面倒を見て、けりをつけてやったのは安江繁家氏ではなかろうかという気がした。

 この事にかかわってmasa氏から情報を頂いていた。
 元和元年(1615)上泉秀綱2月14日京都において戦傷悪化により没(享年33歳) 男なし 上泉秀綱妻娘同道して安江家に引添 上泉秀綱長女に志駄修理義秀三男源十郎を娶せ家督相続 上泉秀富と称す 禄高300石に減禄、元和5年(1619)上泉秀富実父志駄修理義秀より足軽一大隊を預かり、主水町に邸を賜る

「上泉秀綱妻娘同道して安江家に引添」ということなので、安江家で一家を引き取っていたという事のようだ。その後の上泉家の安泰の環境を整えたのは、間違いなく安江繁家氏だったという事のようだ。
 戦記物を読むだけでは見えない気苦労が見えてくる。
by shingen1948 | 2010-08-19 05:31 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)