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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安江繁家26

 地元の方の地域を知りたいという動機は、自分とのかかわりだろうか。
 この興味のハンディーは、分かる事を増やすことで埋めていくことになる。この分かる事を積み重ねていく中で、その方の感性に近いものを感じられたような気分になることがある。

 先に整理したように、安江家は、繁家氏から2家に分かれる。繁家氏は、その2家に分かれたいわばその別系にあたる方と過ごされるようだ。頭で考えると、その事に多少違和感が残るのだが、情の世界で整理し始めると成程と合点がいく。
 安江繁家氏の御夫婦は、建前ではなく本音の世界を重視されたのかなと思えてくる。それは、根津(安江)監物氏が、安江家二男として入籍されるのだが、その根津(安江)監物氏へ嫁入りするのは、上泉秀綱氏の娘さんらしいということだ。
 この上泉氏と安江氏の関係は、上泉氏が慶長2年(1597)に信州から上杉氏のもとに入られた時に、安江氏の娘を妻に迎えられている。その上泉氏の二女を安江監物氏に嫁がせているということだ。
 複雑な言い方をしたが、血筋関係でいうと分かりやすいだろうか。安江氏にとって実質的には自分たちの実の娘の子に、安江監物氏を婿に取らせたということだ。
 家督という建前を抜いて情緒的に考えれば、娘の子の世話になりながら老後を送ったという事だ。娘の子というのは、結構可愛い存在なのではないかと思うのだ。そんな環境の御夫婦の老後は幸せだったのではないかとも思えるのだ。
 更に、地縁的には、根津氏も上泉氏も安江氏も信州つながりであり、その共通の関係性で結ばれているという精神的な安定感があったのではないかと思うのだ。

 上泉氏が娘を嫁がせるのに、根津氏の「大井山城守」の情報はかかわったのだろうか。そんなたわいもない事を想像しては喜んでいるが、どうだろうか。
Commented by MASA at 2010-08-18 06:58 x
上泉主水の娘が安江繁家の孫と確認していましたが、さらに①当時の安江家、上泉家の歴史、②二女と根津喜兵衛との婚姻時期(寛永16年だと二女は35歳)、③定勝公当時の政治、特に新家創設状況などについて確認したいと考えています。確認後、情報提供いたします。
上泉秀綱の長女には志駄修理義秀三男源五郎を取合せ、上泉秀富として家督相続させていますが、養子故に秀綱の禄500石から300石になってます。
Commented by MASA at 2010-08-18 20:01 x
○「上泉信綱及び上泉家年表」、「上杉家御年譜」上泉氏、安江氏等によれば以下の経緯となり、上泉秀綱次女は安江繁家の孫で、元和2年~3年段階では将来が最も心配な存在であったと思われます。
・慶長2年(1597)上泉泰綱嫡子秀綱と共に越後に至り上杉景勝に仕え、直江兼続の手に属す 秀綱に1500石を与う
・慶長3年(1598)上泉秀綱四本松郡代安江五郎左衛門繁家娘を娶る
・慶長5年(1600)上泉秀綱長女出生 上泉泰綱9月29日長谷堂において勇戦の後戦死
・慶長6年(1601)上杉景勝羽州米沢に移封禄高30万石に減禄となり、上泉秀綱も500石に減禄
・慶長9年(1604)上泉秀綱二女出生
・慶長19年(1614)上泉秀綱大坂冬の陣で11月26日鴫野の戦いで重傷を負う
・元和元年(1615)上泉秀綱2月14日京都において戦傷悪化により没(享年33歳) 男なし 上泉秀綱妻娘同道して安江家に引添 上泉秀綱長女に志駄修理義秀三男源十郎を娶せ家督相続 上泉秀富と称す 禄高300石に減禄
・元和5年(1619)上泉秀富実父志駄修理義秀より足軽一大隊を預かり、主水町に邸を賜る
Commented by MASA at 2010-08-18 20:02 x
○上泉秀綱二女の婚姻時期は確認できませんでした。長女は15歳で婚姻しているので、15歳の元和5年(1619)当たりかなと思うのですが、秀綱二女と越後、会津と行動を共にしてきた豊臣秀吉の家臣で目付役であった大笹生居住の根津八左衛門の三男
根津喜兵衛正次を娶せ、養子・養女としたのではないでしょうか。そして、繁家が再致仕するに当たり寛永16年(1639)11月28日に二男安江監物正家として家督相続させたのではないでしょうか。寛永16年の養子縁組では二女は35歳なのであり得ないです
ね。
○「藩制成立史の綜合的研究 米沢藩」によれば、上杉定勝治世(元和9年(1623)4月~正保2年(1645)9月)に侍格への格上げ、加増及び分家取立、亡家再興などによって家臣団充実策が進められたとの記載がありました。この区分によると、元和4年に安江繁家の福島奉行・郡代再勤による新秩200石は新規取立になりますね。
また、これによれば、志駄義秀、上泉秀富が寛永7年(1630)12月に侍組に格上げになっているとのことであり、元和8年(1622)6月に奉行・郡代となった志駄義秀の権勢が伺われます。

Commented by はなまる at 2010-08-19 11:21 x
なかなか涼しくならなくて今年の夏は身体にこたえますね。動きたくないので、目でそこら辺の資料を追っていたら、『慶安2年知行帳』が・・・。御馬廻江戸一番・(百石)・信夫 根津八左衛門、弐百石欄に、安江権兵衛、同・安江監物の名が見えます。この自分資料は部分的にコピーしていたので繋がりに不自然さがありますが、3名の関係者が表記されていますので、参考まで。以前米沢に研究資料を探しに行った際に書店か?で求めた享保10年の米沢城下絵図に確かに首水町に上泉家の屋敷があります。そして近辺に安江キ右エ門表示の屋敷も見えますね。いろんな繋がりがわかってきて興味深いですね。
Commented by はなまる at 2010-08-20 11:40 x
訂正・安江キ⇒才右エ門
Commented by MASA at 2010-08-20 23:27 x
○7月、はなまる様にご示唆いただき『慶安2年知行帳』のマイクロフィルムを米沢図書館で閲覧した時は、その時はプリンタの印字
がすごく不鮮明だったので、印刷できませんでしたが、実物のマイクロフィルムを見たときは、妙な気持ちの高ぶりを覚えてました。
○ 享保10年の米沢城下絵図とは貴重なものですね。享保10年当時だと、上杉御年譜23御家中諸子略系譜によれば、首水町の上泉家屋敷は上泉主水秀賢、近辺の屋敷は直系(安江繁家嫡子の系統)で繁家を初代として5代目の安江才右衛門為繁の屋敷、また、別系(繁家養子の系統)は繁家を初代として5代目の安江与五右衛門正之となります。当時の絵図と現在の地図をかさねるのも良いですね。
Commented by はなまる at 2010-08-22 16:57 x
MASAさま
研究されていた事柄に道筋がついてくると何ともいえない満足感・充実感、そして興奮がありますね。まして当時の方々のモノ・古文書など目にすると言葉ではちょっとあらわし難い感情がありますね。
○私は、「信夫」という表記に興味があります。信州関係者の他は仙道という表記が殆どですが、根津氏だけが地元「信夫」・そして百石ですから破格の待遇ですよね。やはりこの信夫の雄であったことは間違いのない事実でしょう。
○享保10年の城下絵図は市制施行90周年記念として発行された一般向けのものでしたが、売れ行きがよくて確か米沢の書店で最後に残っていたものだったようです。(探せば手に入るでしょうが)家臣の屋敷割りには住人名が記入してあり、彩色も良く、米沢図書館の城下絵図では最も秀れているという説明書きが裏に記してあります。私の研究対象家臣の屋敷も見つかって興奮して帰ってきたことが思い出されます。
Commented by MASA at 2010-08-23 22:40 x
はなまる様
ありがとうございました。享保10年米沢城下絵図は米沢図書館で販売中(残り僅か)とのことで予約しました。また、某HPで同絵図が公開されており、上泉主水、安江才右衛門の屋敷を見つけました。上泉主水屋敷は当時の上層部屋敷街のど真ん中にあり現在の南部小学校北、また、安江才右衛門屋敷は本丸の南で現在の城南1丁目当たりでしょうか。
1664年の半地で米沢に移った方々の屋敷を把握できるのは何とも言いがたいものがあります。週末、絵図購入がてらちょっと散策しよう思っています。
Commented by はなまる at 2010-08-25 10:21 x
MASAさま
週末の米沢探索楽しみですね。どのように纏められるのか?私が心配することではないように思いますが。寛文4年の半地ですが、ここで線引きがなされて米沢方と信夫方で付き合い(家同士)が無くなったわけではないので・・・。暫く墓参の行き来などあったようです。また、明治になるまで参勤交代の際には街道筋に出て送り迎えをしていた元家臣たちもいましたし、図書館書士さんは、街道の見えるところで「隠れるようにして見送っていた元家臣・関係者もたくさんいたのですよ」という話をしてくれました。御馬廻り・五十騎の屋敷図も在りますので、図書館に行かれるのなら、見られると良いと思います。安江五郎左衛門邸があります。
Commented by MASA at 2013-05-11 06:22 x
2010-08-18 付けのコメントでご紹介した「上泉信綱及び上泉家年表」が掲載されている諸田政治著「上毛剣術史剣聖上泉信綱伝」を前橋市内の図書館で見つけました。この本は、米沢の上泉家文書等を参考に記されたものでした。また、上泉家発祥の地が現在の前橋市上泉町であることも分かりました。
Commented by MASA at 2013-05-11 06:33 x
2010-08-18 付けのコメントでご紹介した「上泉信綱及び上泉家年表」が記されている諸田政治著「上毛剣術史剣聖上泉信綱伝」を前橋市内の図書館でみつけました。「上毛」で検索したら、「上毛野」の略で、群馬県の国名上野国を指しているとのことで、これがヒントになりました。米沢の上泉家文書等を参考に記されたものでした。
また、上泉家発祥の地が現在の前橋市上泉町であることも分かりました。
by shingen1948 | 2010-08-18 05:49 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(11)