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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安江繁家24

 芋川氏の墓碑については、先に「大森城跡を訪ねる②上杉景勝の領地だった時代」として整理している。現在は信達33観音5番札所の隣にある。現在のこの観音堂の別当寺は、円通寺のようだ。
 この時は、この墓碑の主を、大森城の経緯の中で、この城の最後の領主だった方々というイメージでしか見ていなかった。
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 改めて今回訪ねたが、同じ場所なのに違う見え方だ。
 今回は芋川氏という人をイメージしているのが分かる。そして、その方と大笹生の東禅寺4世がかかわって、菩提寺として常栄寺を開基するという行為をイメージし、更に4代に渡ってここで過ごされたことを思っている。


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 元々この方々の墓碑があった場所は、案内板によると「ここより左手下椿舘の墓地にあったものを昭和36年9月に現在地に移転改葬された」ということだ。

 あくまでも想像で確認していないが、この左手下椿舘の墓地というのが、常栄寺の墓地だったのではないかと思う。
 恐らく、地元の方に旧寺の場所という言い方で問えば、その寺の位置も確認が可能なような気がした。墓参りの方もたくさん訪れていてチャンスはあったが、小心者なのでその声かけは出来なかった。


 改めて、3代の墓碑を確かめる。
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 北信濃(長野県)芋川郡を領していた国人武将武田氏に仕えた後、上杉氏に従い、上杉氏が会津若松へ封ぜられた慶長3年(1598)白河城(小峰城)に入り、関が原合戦後の慶長6年(1601)8月、大森城主となった。
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 それ以来、大森城主として初代正親・二代元親・三代綱親・四代高綱と続く。そして、高綱の時代の寛政4年5月(1664)に、米沢へ移るのだが、それまで4代64年に及んでこの地にとどまった。
 そして、慶長19年(1614)の大阪冬の陣の時の城代は芋川元親氏で、上杉方の武将として参加して活躍しているようだ。

 その間、大笹生の東禅寺4世とかかわってその菩提寺として常栄寺を建て、この地で4代に渡って過ごしていた処ということだ。
 上杉氏の減封にともなって、寛文4年(1664)に時の芋川高親氏が米沢家老として移っていく。重責を担って米沢にいくことは誉ではあったろうが、情の部分では、故郷を離れる寂しさがあっただろうと思う。その想いに追い打ちをかけるように、この大森城は完全な廃城になるという経緯をたどる。
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 そして、菩提寺である常栄寺も、先に整理したように、明治政府のお偉い方の宗教の考え方に巻き込まれ、神になるか仏になるかで廃寺に追い込まれたという経緯をたどるようだ。

 この観音堂は、新たにつくられたものなのだろうか。それとも、常栄寺がかかわる御堂だったのだろうか。
by shingen1948 | 2010-08-16 05:17 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)