地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安江繁家⑲

 根津賢物氏は、大笹生舘にかかわる伝承でも登場する。
 この城は、文治年間佐藤基治の治下にあったとし、その舘主をこの根津賢物氏だとする言い伝えだ。しかし、佐藤氏が盛んな時代ではあったが、このことと根津氏の関係性を明らかにする資料はないらしい。しかも、根津賢物氏の没年は、先に確認したように近世初期らしいという状況がある。
 それでは、この情報が無視できるかというとそうでもないらしい。
 この伝承は、「「県文化財調査報告書」25集福島県の寺院跡・城舘跡」という権威ある資料にあり、安易な説ではないとも考えられているらしいからだ。
 こういった状況の中で、「ふくしまの歴史」では、「文治年間(1185~90)は佐藤基治(元治)の支配下にある、根津監物という人が住んでいたという説もあります」という紹介を付け加えて表現しているということらしい。
 大笹生の散歩では、それらの情報を得て歩きはじめたので、実際に散歩をすると根津監物氏が、上杉家臣で代官だという標柱に出会って混乱したということだ。

 この辺りの散歩では、こういった確からしさの揺らぎの中に立たされることになるようだ。しかも、この地区の上杉時代の散歩情報は少ない。東禅寺の中興とされる上杉家臣福島郡代奉行跡部外記氏の情報も、地域の資料を探る中で得られるという程度だ。半田氏の資料は、上杉時代の大笹生には全くふれない。これらの情報が、先の瀬上氏の伝承とも矛盾し、地域ではまだ新しさのある生々しい課題として避けているようにも感じられる。
 「大笹生100年史」ではこのことを配慮してか、根津監物氏を紹介した後、次のような評価を加えている。
 根津賢物の名や知行高は分限帳には見えない。
 根津を名乗る者で、知行帳に出るのは、慶安2年(1649)に信夫、100石の根津八左衛門だけである。時代がやや下って突然出てくることと、100石取りが舘を構えるかどうかが疑問である。あるいは、根津賢監物の子が取り立てられたかどうかも脈絡つけ難い。
 根津舘の主は、今後の調査研究がまたれるところである。

 一見すると、地元ではほぼ否定的な情報で、権威ある書にあることで生き延びた説かとも思えてくる。しかし、確認していくと、どうもそんな単純な事ではないような気もする。
 それは、確からしさとかかわる位牌だ。没年は確かに佐藤氏の時代と違うし、瀬上氏の言い伝えと矛盾する。しかし、位牌という性格上、そこには真なることが刻まれているはずで、「大江山城主」なることが無視できないのではないかということだ。
 そんなことを思っていたら、昨日のコメントに、この位牌にかかわる詳しい情報が、masa氏から寄せられていた。
Commented by MASA at 2010-08-17 06:03 x
「福島県の中世城館跡(福島県文化財調査報告書第197集)」でも、大笹生城について「文治年間、根津監物の居館」とされていました。ただ、文献等とされる信達一統誌では、「旧館 山の下にあり 天正年中伊達輝宗の家臣瀬上淡路がここに居住すと云う」とされていたのが救いです。
今度の土日で、そもそも何の文献に「大笹生城 文治年間、根津監物の居館」とされているのか確認しようと思っています。
by shingen1948 | 2010-08-10 05:27 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(1)