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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安江繁家⑭

 人物を追っていると、感情移入して気になることが出てくる。その一つが、石栗氏と安江氏は、同じような経歴なのに、この地域の歴史の話に登場するのは石栗氏の登場が多いことだ。それに伴って、その経歴も検索に少しかかりるのが多い気がする。

 石栗将監氏は、二本松の芦立城の城主というのは明らかなようだが、その二本松の芦立城が手持ちの資料では見つからない。
 それで、いろいろ検索すると「天地人講座」がかかった。   
 小山の家康と会津の景勝、そして、浅香城の直江兼続という構図の中で、兼続が指揮した城名として、次のように登場する。
 「兼続は、中通りにあって若松城・福島城・二本松芦立城・長沼城を指揮する。」
 この書状の高橋氏の具体的な説明を確かめると「兼続は、若松城、福島城、長沼城を指揮し、「二本松芦立城将」を指揮する(資料纂集歴代古案)」とある。
 このことと、大玉村史で二本松の城将を確認するのに使用したと思われる文書とその説明を重ね合わせると、ここで守りたかったのは二本松芦立城ではなく、守りたかった要の城は、二本松城でなかったかと想像できる。
 ここからは素人の想像だが、他の城将達は、作戦上他の地に出ていて、実際に中心となって守っていたのが、二本松芦立城将である石栗将監長広だったという構図ではないかなと思えてくる。
 これも、素人の感覚だが、安達地区の資料の読み違いが無ければ、直江兼続が指揮したという浅香城は、実際の城代と城将が別で、この城将は、二本松城に居城していたのではないかなあと思える。
 これらの事情と、二本松の東城と西城が会津詰めが無かったという説明が、何となく分かったような気がする。

 しかし、散歩人の段階では、検索に石栗氏の経歴はかかるものの、具体的な二本松芦立城はよく分からないという点では、安江氏とさほど変わらないとも思えてくる。
by shingen1948 | 2010-08-05 06:21 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)