地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
カレンダー
S M T W T F S
1
2 3 4 5 6 7 8
9 10 11 12 13 14 15
16 17 18 19 20 21 22
23 24 25 26 27 28 29
30 31

安江繁家⑬

 これから、大笹生と安江氏のかかわりについて確認したいので、あらかじめ断わっておく。
 それは、これからの話は、大笹生の根津氏が安江氏の嗣子に入ったのではないかという仮説に基づいている。これは、安江氏の家伝とも合致し、大笹生根津氏の課題についても合理性のある説明ができそうに思うが、一般的には地元や地域の地誌研究家に認められていないらしいということだ。
 もっと言えば、発信力のある人々に認められた説ではないということだ。そのことを断わってから、話を進める。

 さて、直ぐに思いつく確認方法は、地域の方々の情報を整理したものと、寺の情報だ。
 まず、安江繁家と同じような立場で、同じように信夫伊達の地にやってきた石栗氏が、散歩人に、どんなふうに情報として確認できるかと考えると、手っ取り早く寺にかかわる情報か得られる。
 石栗氏が創建したという寺は金源寺なので、そのことを「福島市寺院名鑑」で、確かめてみる。すると、金源寺の由緒沿革の中に、次のような説明がみつかる。
 延享3年(1746)寺社奉行に提出した「開基由緒書上書」によると、「当山開基上杉景勝之家臣石栗勘解由、慶長2年(1597)越後国岩船郡小川村金源寺を当村に移造立候。右勘解由来孫只今羽州米沢上杉殿ニ候」とある。

 そして、安江繁家氏と対比する石栗将監氏については、次のように説明する。
 慶長3年(1598)上杉家臣の石栗将監長広は、二本松の芦立城の城主となり500石を領した。
 慶長6年(1601)200石に減らされ、信夫代官となって、下飯坂舘に居住し寛永2年(1625)に没した。

 この金源寺は、石栗将監氏の菩提を弔うために、その跡を嗣いだ勘解由長次が同地区柳屋敷地内に宝聚山金源寺を建立したということらしい。なお、石栗家の現況にもふれ、「今も米沢に在住、曹洞宗東源寺の檀家総代を勤める」とある。

 確認できたことは、
①寺を創建したのは、石栗将監氏の跡を継いだ方のようだということ。
②その目的は、石栗将監の菩提寺のためであること。
③創建した時期は、慶長2年(1597)ということなので、石栗氏が、仙道に移ってきた時期としていること。

 これを安江氏と比べてみると、比較的似ているのが経歴だ。
 石栗氏の「二本松の○○城の城主となり500石を領した。慶長6年(1601)200石に減らされ、信夫代官となって、○○舘に居住した。そして、その子孫たちは、その後の上杉氏15万石減封によって、米沢に移られた。」という○○の部分に安江氏の具体的なことを入れると、そのまま安江氏の経歴になる。
 先の○○は、「塩松の城(今のところ具体的な城が確定できない)の城主となり」ということになる。次の「信夫代官となって、○○舘に居住した」という部分が、「大笹生の舘に居住したのは明らかだが、その前に別の地の舘に居住した可能性もある」ということにならないかということだ。
 その場合、石栗氏と安江氏との違いは、石栗氏が故郷の寺の末寺として創建しているのに対して、安江氏は、地元の寺の末寺として創建していることだ。そして、現寺とかかわるのは、米沢に移られた方と伺えるということだ。

 かなり地元の課題に踏み込んでしまいそうで、ちょっと心配。
[PR]
Commented by MASA at 2010-08-05 06:11 x
参考情報です。
①福島の文化(福島市史別巻Ⅶ)P214と福島県歴史資料館研究紀要第10号「近世信達地方の曹洞宗寺院とその支配・維持機構のP8に、金源寺は長楽寺末寺と記載があります。東禅寺末寺の安楽寺と同じように地元の寺になるのかなと思いますが、出身が明らかなので出身地の寺を移せたのですね。安江氏は父中務は元信州衆とされているので、それとの違いですね。
②福島市の文化財(報告書42集 福島市の寺院の扁額その2)に、安楽寺の三門額「鉄壁」は、平野金剛院の開山で、元和2年寂の米沢東源寺10世雪翁雲積和尚の筆との記載があります。安楽寺の開山の一つの資料ですね。
by shingen1948 | 2010-08-04 05:41 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(1)