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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安江繁家⑫

 信夫伊達の安江繁家の情報を、福島市史などと照らし合わせながら整理してみる。
 安江繁家は、慶長6年(1601)福島に移ると元和2年(1620)まで200石福島代官を勤め、嫡子繁国に家督を相続して隠居する。
 福島市史の本文で確認できるのは、その後だ。
 元和4年(1618)から寛永13年(1636)まで福島奉行と郡代を兼務する。この後、制度として、福島奉行郡代兼務を廃止するらしい。それに伴って、寛永13年(1636)からは郡代になられるようだ。そして、寛永16年(1638)に再び隠居して、安江監物へ家督を譲るということらしい。

 この安江繁家が大笹生とかかわるらしいということで、スタートの安江氏の墓碑の存在ということになる。
 そのかかわりの時期だが、確実にかかわっているのは、福島奉行と郡代を兼務するあたり以降の可能性が高いだろうと想像する。福島市史の本文に登場するあたりから後半部ということだ。その頃、大笹生の根津氏とかかわったということの想像でもある。
 このことについて、市史の中で読み取れることも、地元では疑問符をつけながら語られることがあるのは、複雑な関係性があるからだ。
 まずは、根津氏から安江氏の嗣子が相続しているということだ。しかも、地域では、根津氏のイメージが強く、安江氏のイメージが薄いという状況でもある。
 このブログのコメント欄で、簡単に監物の知行が存在するのは当然というやり取りがあった。じつは、これが当地では疑問点の一つの観点になっていたようだ。根津氏の知行が見つからないのに、ここに、屋敷の存在を語ることはできないという律義さがあったようなのだ。
 これは、根津氏で検索するから見つからないだけで、嗣子になった安江氏で検索すれば簡単にその存在は確認できるというだけだ。
 その知行で、ちょっと気になるのが、元和4年(1618)に福島奉行、郡代で再勤の時点だ。安江氏の形式的な知行は200石だ。しかし、嫡子繁国は家督を相続して、200石の代官は継続している。つまり、この時点の安江家知行は実質400石になったという事でもあるようだ。
 これが、恩賞という概念にかかわるカラクリなのか、単なる人事的な都合なのかは分からない。
by shingen1948 | 2010-08-03 05:24 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)