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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安江繁家⑩

 二本柳宿をまとめられた方が推定したように、この安江・石栗は上杉氏の家臣であって、安江五郎左衛門・石栗勘解由として寛永8年分限帳200石をもつ信夫の役人であるのは確かなようだ。
 慶長6年(1601)に上杉氏は30万石で米沢に移封になるが、その時にこの仙道地域は上杉領ではなくなる。
 この事は、安達郡の方々の感覚では、大きな変化はなかったもしれない。それは、会津領のままだからだ。会津では、殿様が上杉氏から蒲生氏に代わるという大きな変化だが、この地では、この地を治める方にちょっと人事的な異動があっただけだ。上杉氏は、蒲生氏に迷惑がかからないように速やかに引き継ぐ紳士的な命令を下だす。そんなこともあって、この変化がこの地域に及ぼした影響は、郷士の方以外は、微々たるものだったのかもしれない。
 しかし、この地の上杉の将士達にとっては、かなり厳しい移動だったと思われる。
 命令では、この仙道の将士は、全員信夫伊達の上杉領に移ることだったという。速やかな引き継ぎと、速やかな移動ということだ。この地の町史等によると、9月から10月までにはその移動が完了しているらしい。軽輩の者も翌7年(1602)2月までには、全て移動を完了したという。
 しかも、知行のあてがいは会津時代の3分の1ということだ。120万石から30万石への減封なので、理屈では納得しただろうが、現実的には相当厳しかったと思われる。安江五郎左衛門氏の場合、3分の1までにはならなかったが、それでも500石から200石の減封だ。
 情報として曖昧だが、同心馬上30騎、足軽100人はどうなったろうか。もし、これら全ても、「軽輩の者も翌7年(1602)2月までには移動を完了した」ということに含まれているのであれば、この体面を保つための必要経費は継続されたままということになる。
 とりあえずは勢いでしのげるだろうが、そのプライドを守り続ける経済的な裏付けは保障されないということだ。
 知識としてこの減封の情報に接しても何も感じなかったが、こうして人物を追っていると、そこに感情が移入されて、つい同情してしまう。
Commented by おやじ at 2010-08-01 12:37 x
そこで、福島盆地の開墾につながるのかな。
帰農した下級武士も多かったのでしょうね。

その後、末子相続騒動で、、、米沢藩は頭デッカチな組織となっていくのですよね。

そこで、鷹山公の登場、と。
Commented by shingen1948 at 2010-08-04 15:28
 一般的には、福島盆地の開墾の話と取り立ての話でしょうか。この段階でも帰農の話はあったでしょうかね。次の更なる減封で、そうならざるを得なかった方と、希望された方がいらっしゃるということのようですね。

 歴史的には厳しい状況ですが、地域という見方をすれば、この必死に開発されたことが、この地域の基礎を確実なものにしたという側面もあったとみることもできますよね。
by shingen1948 | 2010-08-01 05:07 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(2)