地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安江繁家⑧

 塩ノ松東城・塩ノ松西城の統合については、ちょっと曖昧なようだ。塩ノ松西城が小浜城であることは明らかなようだが、東城は、確定されないようだ。
 東和町史では、この東城を何とか東和町とかかわりたいというような意図を感じる。
 四本松古舘という説は出土品が古いとし、東和町内か百日目城としたいとする。そして、東和なら、木幡の築舘(鍛冶山舘)か樵(きこり)舘としたいとしている。
 個人的な塩ノ松東城のイメージは四本松古舘だったので、この説が残っているという情報はちょっと嬉しい。もっとも、その理由は、ここを訪ねた事があったからというだけでしかない。
 ただ、ちょっと気になるのが「古舘」がどちらかなということだ。
 築城の観点からは、当然道に迷いながらたどりついて整理した四本松の古城だ。しかし、その四本松城がいわゆる上城(宮森城)に移り、それから、古城に戻って一度廃城になる。立ち止まる歴史の時点によっては、いわゆる上城(宮森城)が「古舘」になる。更には、下城(小浜城)に対しては、上城(宮森城)は、「古舘」だ。
 素人の勝手な想像としては、宮森城もいいかなと思っている。ここを「宮森城跡(上舘)を訪ねる」として整理したのは、粟の須事件とのかかわりだ。伊達政宗が、小浜城(下城)輝宗がここ宮森城跡(上舘)という観点で散歩している。想像しているのが、輝宗の拉致現場だ。
 上城(宮森城)、下城(小浜城)と表記するのは、ここを散歩したのが、伊達政宗を追っている時だからだからだ。
 塩ノ松西城である小浜城を訪ねて「小浜城の伊達政宗に想いを広げてみる」と整理したのは、その伊達政宗を追っている。ここの案内板説明の蒲生氏時代というのを、「天地人の頃」と読み替えればいいのは、ここも同じで、蒲生時代の間に挟まれた3年間が上杉時代だ。二本松あたりの意識との違いは、ここでは、伊達政宗氏時代の意識が多少あって(二本松では畠山氏)、次に蒲生氏時代というのがある。例によって「蒲生氏時代の石垣が残るほか、堀切、空堀が多くの曲輪跡が認められ、戦国末期の東北地方屈指の大城郭である」というのは、上杉時代も含むと考えられる。

 ちょっと考えさせられるのが、敗れた方の歴史は消えるか曖昧になるということだ。石川氏が大内氏に敗れ、その大内氏が伊達氏を恐れて会津へ逃れる。
 その対峙する相手畠山氏も伊達氏に敗れて会津へという歴史の中で、曖昧さが深まっていくことだ。「宮森城周辺を確かめる」では、その中の大内氏と石橋氏の対立、及び大内氏が伊達氏の恐れをなして、会津へ逃れるあたりを中心に整理している。
 築城としての四本松城古城については、「四本松城:岩代上長折の古館に迷い込んで」で整理している。道に迷ったのは、ここを抜けて上太田(東和)に出ればいいという安易な感覚だったのたが、車道がなかったという誤算だった。

 お相手の石栗氏については明らかになってくるイメージだが、安江五郎左衛門氏の詰所という観点からは、残念ながら曖昧さが深まる。
 ただ、伊達氏の抑えを考えて福島あたりを散歩していると、上杉氏として仙道筋の要衝は、苅田郡の白石、信夫郡の福島、大森、伊達郡の梁川、安達郡の二本松、四本松の宮森、岩瀬郡の須賀川、長沼、白河郡の小峰ふたりがイメージされているようなので、「宮森城」が外れでもなさそうにも思っている。
by shingen1948 | 2010-07-30 05:42 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)