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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安江繁家⑦

 ここで、散歩人として気になるのは、二本松東城と二本松西城、塩ノ松東城・塩ノ松西城ってどこだろうということになるのだが、なかなか教えてくれる資料にぶつからなかった。
 「東和町史」が、これにふれていた。ただ、確実性がありそうなのは、二本松東城と二本松西城の話。肝心な塩ノ松東城・塩ノ松西城の方は、推測話でしかなさそうだった。
 安達地区でとらえるいわゆる蒲生後期の資料に、二本松東城と二本松西城統合の文書があるらしい。それを根拠に、現二本松城の東西を分けた城ということが分かるとする。
 二本松西城は、いわゆる「新城舘」であり、ここは先にその意識も持って散歩し、「二本松城址「新城舘」」として整理している。ただし、その感覚は、安達地区の方々と同じように、上杉時代も含めて一括して蒲生時代ととらえている。案内板も、「二本松城が会津の支城であった時代、城主に代わって城を守る城代が二人置かれていた時期がありました。慶長6年(1601)~寛永4年(1627)会津領主蒲生秀行・忠郷のとき」と説明している。
 二本松東城は、いわゆる「松森舘」のつもりで散歩して「二本松城址⑥~松森舘へ」として整理しているが、どこか自信が持てないまま整理している。
 
 二本松城址の散歩は、先に整理しているが、中心は伊達氏に対峙する畠山氏とその家臣群をイメージしていた。その中で、慶長期(1596~1614)・蒲生時代という案内がついた石垣、井戸や寺(ここを散歩している時は畠山氏も意識している)、門などに接しているという感じだ。
 多分、二本松少年隊のスポットライトが眩しくて見えにくいだろうが、慶長期・蒲生時代という案内を、「天地人」の頃と読み替えて、このあたりをもう一度散歩し直してみたいとも思う。
by shingen1948 | 2010-07-29 05:03 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)