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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安江繁家⑤

 二本柳宿に許可を出した、もう一人の石栗勘解由氏の名前は、本宮宿南町の創設にかかわってお目にかかっている。
 その事は、「本宮南町の建設~ちょっとだけ天地人にかかわる」で、ふれている。
 実際のこの町の創設にかかわるのは、小沼貞長氏なのだが、ストレートな許可の出し方をしていない。直接小沼貞長氏に許可が下りていないで、直江兼続知行充行状は、給人石栗将監宛てに出されている。
 その書状が、「企画展「天地人の時代―ふくしまと直江兼続―」に展示されていたので、それを整理し直している。
 ここでは、慶長6年(1601)5月9日付小沼貞雄家文書として展示された。説明の中で、給人石栗将監については、二本松城に500石との情報であった。また、間接的に石栗将監を通して免状を与える形式についても、当時はあり得る形式として解説されていた。
 整理した時には、ここで得た情報としているが、実際には旧本宮市の郷土史の資料から読み取れていた内容と変わりはなかった。
 それに比べれば、今回の安江繁家の情報との比較が楽しい。
 給人石栗将監氏が、二本松城の500石であり、安江五郎左衛門氏が、金奉行・東塩松郡代であり、知行も500石、同心馬上30騎、足軽100人を付けられたとの情報だ。
 見比べれば、おおよそ同じ条件であったろう事が推定できる。
 確実なのが、知行500石、一方の石栗が、二本松郡代、もう一方の安江が東塩松郡代ということだ。これは推定だが、一方に同心馬上30騎、足軽100人が付けられているというのであれば、もう一方もそうであったろうと思う。
 二本柳宿の許可の出し方に戻ると、仙道地区の西安達を任された二本松郡代石栗将監と東安達を任された東塩松郡代安江繁家の連名で、この二本柳宿開設の許可は出されていたという事だろうと思われる。
 なお、この二本柳宿開設にかかわる文書も、本宮宿南町の創設にかかわる文書も個人蔵文書であるらしい。
by shingen1948 | 2010-07-27 05:06 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)