地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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安江繁家④

 福島郷氏史に洩れた安江氏という事になれば、とりあえず散歩人の検索でも情報がかかる。その関連の根津氏ということでの根津監物氏のイメージの深め方になる。
 例えば、二本柳宿が開設されるのは、慶長3年(1598)だが、渋川平右エ門殿参へ慶長3年7月7日に開設許可を出したのが、安江五三右エ門と石栗将監とのことだ。
 これは、旧安達町からの情報だが、そこでは次のように解説する。
 この上杉氏の信夫・伊達の支配をうける時期に先発の安江・石栗らが、沿道宿駅の整備を行なうにあたり、水利と地理にめぐまれたこの二本柳に「駅を立てる」ことになったものであろう。

 確かに、上杉景勝が会津120万石で移封するのは、慶長3年(1598)だから、上杉氏の仕事であることに矛盾はない。
 ただ、この解説では、「この安江・石栗は上杉氏の家臣であって安江五郎左衛門・石栗勘解由として寛永8年分限帳200石をもつ信夫の内の役人ではないだろうか」としているところが、少し違っているようだ。
 少なくとも、安江五郎左衛門氏は、この時の役職は金奉行・東塩松郡代とのことだ。知行も500石、同心馬上30騎、足軽100人を付けられていたという。
 逆に、この情報で教えられることの一つが、安江氏は、東塩松だけに限定的にかかわったのではなく、西安達の出来事にもかかわっているらしいという事だ。更には、西安達の地でも、寛永8年分限帳200石をもつ信夫の内の役人として安江五郎左衛門が認知される方だということだ。

 この二本柳宿については、先に整理しているのだか、それを確認してみると、この開設が上杉氏の会津移封と関わる事を意識していない事が分かる。
 ○「二本柳宿」
 ここでは、宿場の概観と、その奥に建立される円東寺の由来について、安達太良山とのかかわりや徳一大師とのかかわりが気がかりだったことが分かる。
 ○「二本柳宿から八丁目宿に向かう奥州街道」
 ここでは、二本柳宿から八丁目宿へ向かう奥州街道の道筋とそこにある古碑については、戊辰戦争とのかかわりが気になっていたようだ。
 ○「二本柳宿のシンボル「二本柳」」
 ここでは、二本柳宿のシンボル「二本柳」を整理しながら、芭蕉道であること、戊辰戦争の二本松城奪還にかかわる位置関係等気になっているのが分かる。
 ○「二本柳宿で見落としたことを確認する」
 ここでは、整理し忘れた事を確認し、この宿が開設された時期についてもふれている。しかし、それでも上杉景勝が会津120万石で移封したことと関わった整理になっていない。

 今回、安江氏を意識することで、少なくともこの宿に「天地人の時」を意識することができたという事だ。
 ただ、この情報は旧安達町のもので、現在は二本松市になっている。恐らく、これからは二本松少年隊が前面に出てくるので、この「天地人の時」が前面にでてくることはないだろうなとも思う。ちょっと寂しい。
by shingen1948 | 2010-07-26 05:01 | ◎ 信夫の里(天地人の時) | Comments(0)