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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大笹生⑦~白和瀬神社

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 白和瀬神社は、もう整理済みのはずと思ったらまだだった。
 ここは、誰もが知っているところなので、自分も整理しているはずと勝手に思い込んだようだ。
 散歩としては、延喜式内壱百座に定められる由緒正しき神社というのが最初に持つ感覚。実際に、この信夫の郷の五社を訪ね歩くというのをやってはいるが、こちらもまだ整理していない。
 白和瀬神社由緒を案内板で、確かめる。
 白和瀬神社由緒
 御祭神 日本武尊
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 延喜年中、日本の有名神社を選定、全国で参阡壱百参拾弐社が定められ、陸奥(東北)に壱百座が指定されたとき、この信夫の郷(伊達郡は後に信夫より別れる)に五社が定められました。その折、白和瀬神社は陸奥延喜式内壱百座の内、信夫5社上宮と定められた。
 勧請は、人皇参拾六(36)代孝徳天皇(西暦545年)の御代、大化元年、上大笹生村鳥帽子森嶽頂上に鎮祭されました。しかし、地勢が急峻で容易に登ることができないため、参拝者の便を図って、天正年中(1580年代)、現在の折戸の地に遷座し奉り、今日に至りました。
 由緒正しき当神社は、昭和2年春、村社から一躍県社昇格の報告を受け、当社の由緒からみると、県社以上の資格があるとのことでしたが、維持管理容易でなく、県社に甘んぜざるを得ませんでした。
 白和瀬の名は、信達一統志によると、万葉集下総の歌人の家持が歌集に、
 「早田ト作レリ愚案ズルニ
     白淡川ノ水上ニ鎮座ス神ナレバ白淡瀬ナルベシ
        アハノアハヲ約シテ白和瀬ト唱ヘ来リシナラム」
 とあり、又、白早稲とは、稲からでたという説もあります。いずれにせよ、壱阡参百参拾(1330)年余の歴史をもつ古い神社であると共に、延喜式内の信夫5社でも社地社史明確な社として郷土史でも注目されます。
 当神社は、五穀豊穰、商売繁盛、特に火難・災難(盗難・事故等)除の神として、多くの人々に崇拝されてきました。

 車松神社(白和瀬神社末社)御祭神、神日本磐余彦尊境内には、安産の守神として、車松神社があり、赤白の小さな枕が供えられております。その枕を借り受け、後日お礼として新しい枕を一つ添えてお返しする信仰があり、霊験あらたかな神社です。

 この案内板の説明で気になり出すのが、次の2点だ。
 ○ 白和瀬の名の由来「白淡川ノ水上ニ鎮座ス神ナレバ白淡瀬ナルベシ」の「白淡川」という川   が、八反田川と同義らしいこと。
 ○ また、信達ニ郡村誌には「昔、烏帽子森山にあったが、天正年中(1573~91年)今の地に遷し  た」とすること。
 更に、「信達ニ郡村誌」の「大福寺鯉返り観音」旧地が「八反田川の上流の湧水のところ」だという説明をも含めてみると、その八反田川の源流と白和瀬神社の旧地も関わるという事だ。「源を本村鉢森山に発」するという「鉢森」は、地図の表記では確認できないが、大福寺鯉返り観音の旧地は、豊かな水系を基盤にした信仰であるらしいということだ。
 最初の興味である権威ある神社ということを超えるのが、豊かな自然とかかわるらしいということだ。大地に豊かな実りを約束するための豊かな水を送り出す山々、その神霊である山の神々を代表する白和瀬神社というイメージが浮かぶ。
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 そのイメージに今までの散歩の経緯で得たことを加えると、その白和瀬神社の代表制をより鮮明にするために、明治の政治家主導の政策によって、この地の仏的な観音と安養寺が大笹生中之寺の地に移されたというイメージを持つが、言い過ぎだろうか。
 少なくとも、半沢氏は、安養寺の廃寺はこのことと関わったと感じているのではないかと読み取れる。
 「信達ニ郡村誌」には、折戸は「8戸村社あり」安養寺は「6戸」を記す。
by shingen1948 | 2010-06-28 05:08 | ◎ 水 | Comments(0)