大笹生④~飯坂古道上之町と中之寺
2010年 06月 24日
佐藤氏は、信達ニ郡村誌の記述を元に、飯坂古道の道筋を探っている方だが、その「飯坂道の今昔(二)(佐藤静雄著)」に、この道筋が登場する。
この道筋は、現フルーツラインに近い道筋だが、庭坂―福島間の米沢街道福島道から、飯坂へ向かう古道だ。「大笹生城跡へ向かう道」もフルーツラインで切り取られたこの道筋で、その北側から向かって来た道筋になる。
その「信達ニ郡村誌」では、この街道の上之町の街道沿いの人家の並びについて記述している。
南北3町50間(415m)人家33戸、飯坂道その中央に亘(わた)り村屋道に沿って並列し、頗(すこぶる)市街の状を為す
茶色で示した直線の道のあたりの風景だったろうと想像する。
道の中央に用水路が走り、その両側の家並みが、宿場町の景観だったのだろうと想像する。
道路元標だが、その上之町の飯坂道の側に建てたとある。また、字地の説明では、西南端に元標を建つとして、西南に連なるのが上の寺だとしている。ということは、元の道路元標の位置は、稲荷から上の寺にかけての街道沿いあたりと思われる。とりあえず上之寺への分岐点あたりと想像しておく。
現在は、その道路元標は、フルーツライン沿いの辻戸笹谷線とフルーツラインが交わる四つ辻にある。
その道路元標の地点から北側を眺めると、大福寺鯉返り観音が見える。現在は、フルーツラインのメイン通りになっているが、旧道との位置関係では、旧道の東側に位置するのが中之寺だ。
ここが「信達三十三観音」9番札所「大福寺鯉返り観音」だ。
「心の文化財~ふるさと福島を歩く(ふくしま盆地を歩く会)」によると、鯉返り観音は、元々は八反田川の上流の湧水のところにあったものだが、大永元年(1521)に、ここ大福寺境内に移されたとのことだ。
ただ、「信夫の里札所めぐり(梅宮茂著)信楽社」では、この大福寺も大永年間(1521)地蔵菩薩を本尊として、愛宕権現を奉祠し、愛宕山日輪院大福院として創建されたとする。
また、半沢氏は、明治の国家神道政策で安養寺が廃寺にさせられ、大福寺に合併させたとする。
想像するに、ここは、古来から神仏混淆や習合の宗教観で、いろいろな神々が住む神聖な空間だったのだろう。それが、明治政府の偉い方々の考え方によっていじくりまわされたという経緯のある地らしい。
なお、両著とも、ここを自由民権運動家の佐々木宇三郎氏の墓所を紹介する。
写真手前左手に入るが、古道へ続く道だ。