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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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大笹生②

 散歩の成果の一つとして、安楽寺と大王松と信達三十三観音 10番札所 宿縁寺観音、それに、根津監物の墓の位置関係を確認しておく。
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 これらは、信陵公民館前の地図にプロットされているが、これは必ずしも位置関係を表しているわけではない。概括的にこの辺りにこんなものがありますということを記しているにすぎないということに最近気づいた。
 だから、位置関係が分かるようにプロットされた案内はない。もっとも、それで不自由したという話も聞かないので大した問題でもないようではある。
 なお、「信達十番」と略記してあるのは、「信達三十三観音 10番札所」の「宿縁寺観音」のことであり、大福寺に同じように「信達九番」と略記してあるのは「信達三十三観音 9番札所」の「鯉返り観音」のことで、地元ではこれで充分に分かるらしい。
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 その「信達三十三観音 10番札所」の「宿縁寺観音」は、安楽寺の北側の道を西に進むとその突きあたりにある。


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 その左手が墓地になっているのだが、その間の道の向こうに、白い標柱が見える。


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 これが「根津監物の墓」の案内の標柱だった。
 あれっ、上杉代官になっている。
 「ふくしまの歴史」では、根津監物さんは、文治年間(1185-90)の佐藤基治の支配下にある方で、ここのお隣の大笹生城の城主という噂もある方としていたはずだが、……。

 この大笹生城は、まだ地域の散歩に興味もない若い頃、初めて山城なるものの歩き方をご教授いただいたところだ。その時に、ここの居城者はまだ分かっていないという説明を頂いたが、いろいろな仮説は動いているものの、今もその状況はかわっていないのかもしれないとも思う。

 ※ 安楽寺の「大王松」が気になって、確認した。
 気になったことの一つは「大王松」そのもので、次に、外来種ということと天然記念物の指定ということの違和感だ。
 大王松については、北アメリカの東南部が原産地であることは、案内板にあった通りのようだ。
 名称の由来は、マツ属の中でもっとも長い葉を持つことによるらしい。
 葉は、三葉松で、老木では20~25cm、若木でも40~60cmの長さがあるという。マツカサも15~25cmになるらしい。
 日本ではこの葉を花材として生け花に用いられことが多いという。
 その樹高は、現地では40mを越えるというが、日本ではその半分程度にしかならないとも。
それで、この木が日本に入るのは明治末だが、庭園や公園に植栽されることは、それほど多くはないらしい。
 ということで、植栽された大王松で、これだけ古いのは存在しないという価値から天然記念物の指定ということになったらしい。
Commented at 2010-06-23 21:17 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shingen1948 at 2010-06-27 18:31
情報ありがとうございます。
頂いた情報を確認する前に、上杉家臣団の情報を確認していました。よく分からないのですが、とりあえず四条上杉家臣団の系図にその系図を見つけました。
頂いた情報は、これから確認させていただきます。

もしそうなら、大笹生が飯坂ー庭坂のラインの中間地点でもあるので、上杉氏と伊達氏の対立による村押しと大笹生地区のかかわりが、気になっています。
Commented at 2010-06-27 21:37 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shingen1948 at 2010-06-28 16:47
 ありがとうございます。
 確認してみます。
 安楽寺開基の月が気になります。
 時空を羅列してみると以下のようです。安楽寺開基とその居宅位置によっては、可能性はまだ残るような気がしますが……。
 慶長5年?月安楽寺開基・10月松川合戦
 慶長6年1月から東根郷不安・2月に小手郷攻撃
 
Commented by shingen1948 at 2010-06-28 16:59
(追)
 別件で確認している中に、沢又で砦(足軽頭の組織)の可能性をちらつかせる情報もあって、庭坂の砦とのかかわり等も含めて思考が拡散しています。
Commented at 2010-06-30 22:54 x
ブログの持ち主だけに見える非公開コメントです。
Commented by shingen1948 at 2010-07-08 18:25
ようやくご紹介いただいた資料にたどり着き、確認し始めたところです。
 一つの見方に偏るのが嫌なので、常に自らの感覚を確認してから、一つの見方に接するというのが基本スタンスですので、失礼があったかもしれないなと思っています。
 今、頂いた情報と福島市史やネットの検索でかかった情報をもとにして、時空列に頭の中を整理しているところです。
 根津氏が、豊臣氏家臣系の郷士であることと一度隠居した後、再度復帰するというかかわり、更には上泉氏とのかかわりや、実子の存在が見えないことについての整理がつくと、何かが見えそうだなという思いです。
 それにしても、大笹生の地域としては、もっと着目すべきことなのではないのかなぁと思います。整理がついた段階で、オープンにしてもよろしいでしょうか。
 情報を公開しておけば、専門的な知識のある方の網にかかる可能性があり、何かが見えてくるということもあるのではないかと思うのですが、……。
Commented by MASA at 2010-07-09 22:34 x
 堀江繁太郎先生が昭和10年に投稿された福島民報記事により、安江繁家と剣豪の家系である上泉家、さらには大笹生の根津家が接点があったこと、安江家2家が信達の郡代、代官であったことが明らかになっています。
 これらをオープンにすることは問題ないと思います。特に根津家については、もともとどこの出身なのか、なぜ豊臣家家臣となったのか、役回りは何だったなのか、上杉家との関係は何か、なぜ大笹生にきたのか、また、大笹生の金山とは関わりはあったのかなどなどが明らかになっていませんので、今後の研究等に役立つものと考えています。
 安江繁家に係る当該記事をみた時、これを契機として調べた結果、多賀城市にある東北歴史博物館で安江繁家の自筆署名、花押をみた時の興奮はすごく大きかったです。
 
Commented by はなまる at 2010-07-10 21:18 x
少し間があきましたが、八島田吉野家、笹木野煉瓦工場等でお役にたてたでしょうか?さて、ここで焦点になっている「根津家」についてですが、何・どのような情報が必要なのか?よく要領がつかめないのですが・・・・。私が研究している資料・史料・範囲の中に根津家関係が出てきます。同時代・同地域で生きた人物たち、この頃米沢・上杉藩に仕た藩士ですね。お役に立てればよいのですが、何が一番知りたいのでしょうか?差しさわりなければ教えて下さい。
Commented by MASA at 2010-07-11 18:22 x
根津家については、これまで根津監物と根津八左衛門について調べてきました。
現時点では、福島市史等でいう根津監物とは根津家から安江家の養子となった安江監物のことであること、根津監物とされる墓は安江監物の養父である安江五郎左衛門繁家の墓であること、安楽寺の開基は安江五郎左衛門繁家であることにが分かりましたが、根津八左衛門については、慶安2年(1649年)知行帳に記載あるとの情報しかありません。
根津監物、根津八左衛門に記載されているものであれば何でも結構ですので、資料・史料名と記載ページについての情報の提供をお願いしたいと存じます。
Commented by はなまる at 2010-07-11 23:06 x
MASAさまでよろしいのでしょうか?確かに慶安2年知行帳に記載されています。ご自分で確認されましたか?『福島市史資料叢書 第14 米沢図書館蔵 上杉文書Ⅱ』、これを全て目を通して見て下さい。推移がわかってくるでしょう。『桑折町史・近世 「信達両郡案内記」をご覧下さい。根津氏とその上司関係もわかります。まずは、ご自分の目で資料の確認を!
Commented by はなまる at 2010-07-11 23:22 x
追記 米沢図書館で「先祖書」を調べて見て下さい。ネット検索ではなく確実な資料・史料を確認することです。出自も載っています。
Commented by MASA at 2010-07-17 21:34 x
はなまる様 ご示唆ご指導ありがとうございました。
御家中諸士系譜に根津半兵衛実子勘介と八左衛門、織部、勘介との記載を見つけました。小田切内膳用人根津半兵衛との関係、慶安2年知行帳の根津八左衛門との関係が興味深いです。でも、今後の課題ですが、慶安2年知行帳の根津八左衛門と安江監物の実父の根津八左衛門は別人、別系統であるような感じです。手がかりがまた一つ消えたようです。
Commented by MASA at 2010-07-19 07:33 x
はなまる様 米沢図書館のマイクロフィルムにより慶安2年知行帳、寛文3年分限帳に根津八左衛門、根津織部の記載があり、『福島市史資料叢書 第14 米沢図書館蔵 上杉文書Ⅱ』の掲載は全文でないことを確認しました。また、上杉文書目録をコピーしました。ありがとうございました。
Commented by MASA at 2010-07-19 09:32 x
その後、土日を利用して安楽寺の開基年月について整理してみました。慶長2年4月(寺院明細帳)、慶長6年6月でもなく、元和1年から2年4月又は6月までの間ではないかと思われます。
①寺院明細帳の慶長2年4月だと、上杉は越後で、信夫は蒲生領地です。
②「福島市寺院名鑑」に記載のある慶長6年6月だと、信夫は上杉領地ですが、安江五郎左衛門繁家は、当時四本松(塩松)郡代で、米沢30万石の信夫代官となった慶長6年8月です。
③安楽寺は東禅寺の末寺であり、「福島市寺院名鑑」の東禅寺には「元和年中、4世善翁曇積尚が安楽寺創建」とあり、また、「曹洞宗福島県北寺院世代名鑑」によれば、善翁曇積尚の示寂年月日は東禅寺では元和2年4月25日、安楽寺では元和2年6年28日とされています。
ただ、今後の課題もあります。
①元和2年に隠居して嫡子繁国が家督相続していますが、元和4年に再勤し、大笹生に居住したとの資料がありますが、元和2年の隠居から元和4年の再勤までどこに居住したか明らかになっていません。
②安江繁家が元和2年に隠居するまで、代官として大笹生とどのような関わりがあったのか明らかになっていません。
Commented by はなまる at 2010-07-19 13:46 x
MASAさま 米沢へ出向いてよかったですね。いろいろな資料・史料を目にして広がりを感じられたことでしょう。今後は図書館司書の方と連絡・問い合わせ等して年代の統治背景に関する資料等紹介して頂くことも可能でしょう。銀山関係史料、安江家は明治になるまで上杉藩士だったのか?御家中系譜・先祖書(現代文に訳されたもの)もよく読んでおくと経緯・推移がわかります。頑張ってください。
Commented by shingen1948 at 2010-07-20 16:21
 「福島市史」の近世資料の安江氏を拾っていくと、元和2年に隠居して嫡子繁国が家督相続し、元和4年の再勤したことが、更なる禄を得る権利を得たという読み取りができそうに思いました。
 ここで言えることは、あくまでも可能性ですが、その時点での結び付きもありうるということではないかということです。
 更に気になるのが、この隠居の決断の年と西根堰の結末の年が近いことです。深読み過ぎでしょうか。
Commented by MASA at 2010-07-21 23:57 x
安江五郎左衛門繁家は福島代官の職を18年間(慶長3年(1598年)~元和2年(1616年))勤め、嫡子繁国が家督相続したが、元和4年(1618年)~寛永16年(1639年)の約21年にわたり再勤しています。結果として、ご示唆のとおり繁家の再勤に伴う養子の安江監物への相続による安江氏2苗となっていますが、なぜ再勤したかがポイントと思います。繁家は①一説には慶長3年(1598年)で40半ばであったが、寛永16年(1639年)まで80半ばになるまで、約40年にわたり代官、奉行及び郡代として上杉家に仕えたこと、②松川の小池金山、大笹生の大笹生金山の開発経営に当たっており、他に担当し得える人材がいなかったことなどから、再勤を求められたと考えられます。
Commented by MASA at 2010-07-21 23:57 x
空想は、以下のとおりです。
①根津八左衛門は、甲斐(山梨県)の出で金山関係に従事し、武田氏滅亡後、越後に移り、豊臣家家臣として上杉家による越後、佐渡又は会津、安達での金山経営を目付けしていたが、米沢30万石への配置換えに伴い、誰かを頼り大笹生に移り住んだのではないか。
②安江繁家は、四本松で郡代であった当時、金山奉行でもあったという説があるので、当時安達郡であった熱海の高玉鉱山の金山経営にあたっていたのではないか(四本松は安達郡東部、高玉鉱山は安達郡東部であり、当時の支配体制については理解していません。)。
③安江繁家と根津八左衛門との接点は遅くとも慶長6年ではないか。その過程で、根津監物が認められ、安江家の養子となったのではないか。
なお、繁家の隠居の決断の年と西根堰の結末の年が近いことについては、深読み過ぎと思います。
Commented by shingen1948 at 2010-07-22 18:19
 散歩をすることを中心に考えている者という立場で一言。
 それは、四本松についてなのですが、散歩人としては小浜の四本松ではなく、四本松の支城のある小浜という感覚です。文献的には分かりませんが、散歩の中では奥州探題が四本松で、その支城が小浜ありみたいな感じです。
 もっとも、散歩人としては、新四本松城は、宮森城であり、会津の酒屋さんと関係ありかななどという軽薄な邪推もしますが、……。
 言いたいのは、四本松は当該地域の中心的な権威のある地であり、もっと権威を振るうことができた立場が保障されていたと見れると勝手に思っているところです。
by shingen1948 | 2010-06-22 06:00 | ◎ 飯坂街道・古道 | Comments(20)