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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島の建築40~松齢橋

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 このあたりでは、信夫橋と十綱橋が日本百名橋とのことだが、結構かっこいいと思うのは、松齢橋だ。
 この橋については、先に「渡利地区の阿武隈川沿いの風景③」で、浄水施設の配水ということと関わって、七社宮神社の「松齢橋」碑をもとに整理している。
 ただ、この碑は、明治16年の舟橋の完成を記念するものだ。
 元々、相馬方面の中村街道や飯野・川俣街道と福島を結ぶ重要な地点で、渡し舟の歴史があった。
 明治4年に、その渡し舟に、増水による15名が死亡するという事故があった。それで、その後は風雨の際には舟を出さなくなったという事になったので、増水のたびに交通が遮断していたという。それで、地元にとっては、ここに橋がかかることが悲願だったようだ。

山際のむかしその2」に、事故の詳細が紹介されているのをみつけた。
 明治4年7月、渡し船に40人ほど乗り渡利から福島へ渡ろうとする途中、増水の中で人口超過のためか中州に激突した。全員投げ出されて15名が溺死、他の者はかろうじて救出されるという大事故が起きた。
 その後は風雨が烈しくなると舟を出さなくなり、これでは困るというので船橋を架けることになった。明治16年、舟15艘を並べ川幅120mの両岸に4本の柱を立て鉄線を渡し、各舟の舳と艫をつないだもので、その上に橋板を渡した。水位によって舟が上下すると橋も上下したが、鉄線によって流れない仕組みだった。

 この船橋は、明治40年8月の大暴風雨によって流出して、明治41年に木橋になったが、これも明治43年8月に流出したという。その姿は、渡利小学校の橋の紹介ページ「阿武隈川にかかる橋」の資料に見える。その後、明治44年に架け替えられた船橋も、大正2年8月に流出というように、つくっては流失するということを繰り返したようだ。
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 こういった経緯を受けて、大正14年(1925)に、現在の永久橋の松齢橋が架けられたということのようだ。
 この橋への思いは、交通の要路であることに、先に整理したように福島の上水施設を渡利地内に設けて、この橋を渡して福島市に通水したいという思いも加わるようだ。今は逆に、摺上川浄水場から福島を経由した水が、この橋を渡って渡利地区に届いているのだろうか。
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 ここでも、十綱橋と同じように、県・福島市と共に、信夫郡や渡利村の寄付など、地元の資金がつぎ込まれているようだ。大仏橋が架けられても、この橋が残されているのは、こういった地元の思いという背景があるからだろうと想像される。


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 親柱の上や欄干の凝った街灯がいい。

 「山際のむかしその2」の紹介で、もう一つ興味があったのは、永久橋の前は、民家園に復元された舘下橋同様に、賃橋だったということ。
 明治35年現在で、ひと一人1銭、人力車2銭、牛馬車4銭、二等曳き馬車6銭、自転車2銭、大長持4銭、小長持2銭とのこと。
by shingen1948 | 2010-06-20 05:04 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)