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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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念西夫人の光明寺②~伊達地区の伊達五山

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 伊達五山の光明寺は、初代伊達氏念西の夫人のために創建された寺だ。



 その初代伊達念西朝宗氏の満勝寺跡は桑折町万正寺地区にあり、これは先に桑折町を散歩した時に『伊達氏の祖「朝宗の墓」を訪ねる』として整理している。
 「伊達市歴史ガイドブック」によると、試掘調査の結果、墓の周りを囲む土塁の外側には堀を伴っていたという。そして、そこから、1 3世紀前半と見られる瓦片が出土していて、それが鎌倉の永福寺と同文様であったということだ。由緒に権威があるという確証という意味合いでの記述だろうか。

 その他の伊達五山の寺も散歩とのかかわりで整理しておく。

 観音寺は、中屋敷観音説、国見町徳江の観音寺説もあるが、坂町の観音寺説が有力とのことだが、ここは、西山城の現地説明会の駐車場に利用されていることもあって、その機会に何度も訪れている。伊達五山を意識して、「西山城の散策③伊達五山の旧地を整理する」として整理している。

 光福寺は、字名が残っているだけで、現在は水田となっている。ここも、桑折の散歩でふれたと思っていたが、特に伊達五山を意識した整理はしていなかったらしい。その直ぐ脇に信達大一揆刑場があって、そこを「産ケ沢の信達大一揆刑場」として整理している。このすぐ脇の水田だ。

 梁川の「東昌寺」については、梁川城散策の折に『梁川城⑤~「天地人の時」を中心に』で触れているが、梁川高校グランド辺りを推定しているらしい。
 梁川高校の崖になっている岩地蔵の下は東昌寺へ登る参道であったと見られる。この東昌寺は京都東福寺の仏智禅師を招いて開山としたという。南北朝期の末ころは陸奥安国寺利生塔を兼ね、1 5世紀ころは200人の僧がいた大寺院だったようだ。
 これが、1 6世紀には桑折へ移るらしいが、これが、万正寺地区の古釈迦堂が東昌寺に推定されるらしい。

 慶長9年(1604)光明寺は、他の寺と共に仙台に移り、仙台では北山五山の一つの寺として存在する。ただ、仙台の光明寺は、観光的には、伊達氏始祖朝宗の夫人の菩提寺ということより、支倉常長の墓があるとして名を馳せるようだ。
 慶長遣欧使節としてヨーロッパに渡航した支倉常長の墓と,使節団の案内人であった宣教師ソテロの記念碑が建っているという。
 ※ 北山五山というのは、伊達政宗が仙台開府にともない、城下北端の丘陵地に伊達家ゆかりの臨済宗五ヶ寺「光明寺・東昌寺・満勝寺・覚範寺・資福寺」と、曹洞宗輪王寺をおいて城下町の北の守りとしたもの。
 この臨済宗五ヶ寺を京都五山に倣い「北山五山」と呼ぶようになったという。現在は満勝寺が外へ移ったため輪王寺を含めて「北山五山」といわれているとのことだ。

 この散歩で見た福聚寺住職による「大滝公園竣工記念碑」や「三条院」の案内板の説明のうち三条院にかかわる事をつなぎ合わせてみると、三条院の辺りは、光明寺の阿弥陀堂だったのではないかと思わせるところがある。そして、この三条院というのは、本山派修験(山伏)場で、滝清水を管理する祈祷寺であったということだ。
by shingen1948 | 2010-06-13 05:05 | ◎ 会津への路(伊達政宗) | Comments(0)