福島の建築 ⑭―2~吉野邸
2010年 05月 28日
そこに、「吉野家」については、次のように紹介されていた。
この地に留まった上杉家臣本庄氏の一族の後裔である政兵衛が、初代とのことだ。
その邸宅については、「吉田大尽八島田御殿といえば、明治大正の両代を通じて、県下に響いた豪家である。旧藩時代には、米沢藩上杉家に軍用金千両を融通した」と紹介する。
百七銀行、福島銀行、岩代銀行の各頭取、福島電灯株式会社の社長他20社の重役という実業家だそうだが、昭和初めの大恐慌で、衰退したとのことだ。
この盛衰物語は、報知新聞昭和3年10月から11月にかけて「八島田御殿栄華の夢、数奇の吉田大尽没落因果物語」として紹介されたともある。
紹介された経緯をもとに、煉瓦塀が絵画に描かれていた頃は、建物の一部が某地方紙社長宅となり、新発田藩代官所跡は、某社社宅となっていたころらしいということが分かる。せめて、その時代でもいいので、その風景を見てみたかった。
「福島煉瓦業」については、次のように紹介している。
「稲葉組煉瓦工場」
明治27年開業、稲葉半兵衛氏が奥羽線の建設工事、就中板谷峠の峻険20号を数える隧道の煉瓦を製造するために創立した工場である。旧工場は、字山神の東部であったが、付近の粘土は殆ど掘りつくしたので現在の新工場に移った。旧工場は廃止されたが、小山のようになっている煉瓦くずは、今尚昔日の面影を残している。
この地に進出してくる工場の多くは、鉄道の沿線であるという立地条件のよさを求めている。
この煉瓦工場は、その鉄道敷設に伴うトンネル工事の煉瓦を造るために創設されたとしている。
なお、福島煉瓦業の碑や山神神社由来記では、明治25年稲葉常松氏等が創設としているが、ここでは、明治27年開業で、創設者が稲葉半兵衛氏となり、奥羽線の建設工事とかかわることを強調している。また、旧工場は、字山神の東部であり、地図の小字山神東部に工場のマークが見える。
奥羽線の建設工事を確認すると、明治27年起工、板谷峠の難関を突破して、明治32年5月15日開業するとある。また、大正8年に新駅「ささきの」の開業にかかわる富国館製糸場(大正5年創業)と村の熱意につい紹介する。
承認にすると個人情報が表記されてしまうので、ここはそのままにさせていただいて、次のコメントを表記させていただきました。あしからず。