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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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藤田大光寺板碑群

 藤田大光寺跡にある板碑は、全国的に見ても古く、北関東や東北諸県の同種の板碑の祖型とて貴重で、県の文化財として指定されている。
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 現在、この板碑群は、1号板碑(県指定文化財)を中心に、12基が取り囲むようにまとめられていて、その板碑群を鞘堂が覆っている。ここが、藤田大光寺跡とのことだ。
かつては、これら板碑は、藤田集落の南側の山麓の丘陵地帯にあったという。現在地に移されたのは、江戸時代に越後街道が整備され、藤田村が宿場としての形を整えた時点と考えられているらしい。
 この時点には、各民家も寺と共に現在地に移転してきたと考えられているようだ。ただ、明治の火災で、寺と共に詳細を証明する文献等も消失してしまっているという。
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 案内板では、板碑の形状の特色について説明し、全国的に見ても古く、北関東や東北諸県の同種の板碑の祖型であるという価値について説明する。
 「高田町町史」では、そのことから平安時代の郡衛の推論との関わりについて説明する。
 この周辺や竹原、西勝、富岡辺りに平安時代の郡衛があったと推定されていることだが、そのこととかかわるらしい。

 この板碑の由来は、奥州平泉の藤原氏の側室の女(娘)が、この地に嫁いできたという村の伝承にかかわって説明される。その娘が亡くなって、その供養のためにこの板碑が建てたとされるようだ。
 その由来とも関わって、代表的な推論は次の三点のようだ。
 その一つは、この大口大領の伝説は、大口という姓名と大領という郡衛の一等官の職名を指すものであり、この付近に郡衛があったという可能性が最も高いとするもの。
 その二が、平安末には、律令制度は崩壊し、在地の豪族が力を持っていて、役所の機能は役人の居宅に移るはずと考える。そうすると、藤原氏の娘は、大沼郡を統括する役人か豪族に嫁いだはずだとするもの。
 その三が、藤田の豪族は、かつては関東地方にあって、平泉の藤原氏と親しく藤原氏の娘が嫁いでくるという姻戚関係にあったが、戦いに敗れて藤田に落ちのびてきたとするもの。

 「会津高田町郷土歴史読本」では、村の伝承との関わりについて説明する。
 この藤原氏の娘が嫁いだのは、藤田式部忠重とのことだ。その藤田式部忠重は、藤原氏の支族とされる。
 この夫人は、藤原秀衡の娘であり、延応2年(1240)に亡くなられたという。
 また、この板碑について、全国で9番目に古いと説明する。
 板碑は、関東の武蔵野地方に発生されたとされるという。それからわずか十数年後に、この大光寺の板碑が造られたという意義と、この板碑群の文化が、会津地方周辺へ波及していったという意義も強調する。
 ただ、文献が無いので、その訳や経緯は分からないようで、いろいろな状況が想像されるが、この時代に関東地方との文化交流が親密であったことは明らかなようだ。
by shingen1948 | 2010-05-10 11:17 | ◎ 奥州侵略の路 | Comments(0)