地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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伊佐須美神社④~智鏡塚

 今となっては、確かめることができないが、あやめ苑について、個人的な記憶とかかわって気になっている事がある。
 幼いころの文殊様に参拝した記憶だ。その場所が、なぜか現在松平氏の銅像がある付近だったと思っているのだ。粗末な建物だったが、ここが一番いい文殊様だと案内の人がこだわっていたという記憶だ。何が一番だったのかも分からない。
 その記憶が蘇ったのは、伊佐須美神社西手にある「高田文殊院」を見たからだ。
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 この境内に、智鏡上人を追慕して五輪塔を建てたという「智鏡塚」がある。
 経智鏡上人は、この地方に疫病が流行したに時に、生身往生の法を説いて、自らがいけにえになって、人々を病気から救おうとしたという。
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 天文22年(1553)8月8日から8月29日の21日間、智鏡上人は、墓穴のお棺の中で読経し続けたという。「吾が鉦のならざる時は往生なり」ということで、命日が8月29日とのことだ。
 「智鏡塚」の案内板では、生身往生の他に、伊佐須美神社の再興についてふれている。
 そのことについて、「会津高田町郷土歴史読本」で確認する。当時は、神仏混淆の時代である事を念頭におくように促して、次のように説明する。
 上人は、京都の公家の子として生まれ、若くして仏道に入ったという。会津には、天文の初め下り、高田法幢寺の住職になり、その後伊佐須美神社奥の院清龍寺の住職になったとのこと。
 伊佐須美神社は格式の高い神社だったが、たびたびの火災等で荒れ果て、文亀3年(1503)の火災では、宣命位記も灰になったという。
 そこで、智鏡は、当時の黒川城主葦名盛舜と相談して京都に行き、天文20年(1551)12月14日に後奈良天皇に「宣命」と「奥州二ノ宮正一位伊佐須美大明神」の額を頂いて会津に戻ったとのことだ。
 この五輪塔には、生身往生と共に、伊佐須美神社再興の功績への讃辞と感謝の意も込められているということのようだ。
 地域の言い伝えの範疇なのかもしれないとも思う。

 改めて、伊佐須美神社御由緒を神社前にあった案内板で確認する。
 伊佐須美神社御由緒

 伊佐須美神社の創祀起源は悠久二千有余年の昔第十代崇神天皇十年四道将軍派遣の時に始まり古事記には『東の方より遣けつる建沼河別、其の父大毘古と共に相津に往き遇ひ給ふき故れ其地を相津と謂ふ』と記録されている如く会津地名発生の伝承社であります。即ち往き合い給うた時国家鎮護の為、国土開拓の祖神(諾・冉二神)を会津高嶺の聖地天津嶽(新潟県境)に鎮斎されたのが始まりと伝えております。その後博士山、明神岳を経て欽明天皇13年(552)当地に御鎮座されたのであります。
 その時大毘古命、建沼河別命二神も合祀奉斎されて以来1400有余年、歴朝はもとより歴代藩候、別けても会津松平藩祖保科公以来格別の崇敬と庶民の崇敬殊のほか篤く、延喜式内『名神大社』光格天皇宣下『伊佐須美大神宮』として崇められ、又戦前は国幣中社として官祭に預り御社殿の奉修、改築、社領、宝物等の寄進が相次ぎ会津開拓の祖神を祀る大社にふさわしく、今尚広くあらゆる殖産興業を守護したもう御神威のもと衆民の崇敬は深く厚いものであります。


 五輪塔の脇には、「芭蕉翁袖塚」碑がある。
 案内板の説明によると、芭蕉が「奥の細道」の旅に出た時、右の袖は筆のすさびには邪魔になるといって切り取って弟子に与えた。それを高田の俳人田中東昌がもらい受けたのをここに埋め、その上に碑を建てて芭蕉翁を偲んだという。
by shingen1948 | 2010-05-09 05:01 | ★ 季節便り | Comments(0)