信夫三山28 ~ 念仏橋
2010年 05月 03日
その解説に、念仏橋の由来についての解説がある。
それによると、この板碑が信夫山の裏の泉川の橋にかけられていて、村が春秋2回、この橋の上で念仏をあげてきたので「念仏橋」というという事だった。
「信夫山」の地図を確認すると、旧道と新道の重なり具合からは、県民葬祭の後ろ辺りのようにも想像できるが、清水公民館前の地図からは、ぼたもち石の近くの道筋のように思われる。
清水公民館前の地図をもとに、この位置を探ってみる。
この辺りは、道路と水路が改修されていて、昔の道筋は分かりにくい。
ミラーがあるのは、新旧の信夫山一周道が交わるところで、ここに大石がある。これが、地図で言うぼたもち石だと想像する。
泉川も道を広げるために蓋がされていているが、ここから顔を出して、松川に向かう。
この板碑に、祈りが込められていたことは知られていたらしいことは、案内板から読み取れている。
ここを通るときには、通行人は念仏を唱えたというし、春と秋の彼岸には村人全員で、ここで念仏供養をしたということだ。
この板碑に込められた願いは、文大日如来を信仰した息子が、母親のために祈ったものというものだったらしい。
昭和6年(1931)に、村人たちはこの板碑を、信夫山の薬王寺道ばたに戻している。元々は、甘粕の碑の近くにあったという。
「信夫山」では、この橋にした事情を「故あって」とする。
思い出すのは、大塚山の山頂に横たわる古墳の石棺材だ。これも、橋として使用された経緯を持つ。そのことについては、先に「大塚山の棺桶の蓋」として整理した。