福島の建物⑥―その6
2010年 04月 27日
「村岡花子の生涯」によると、ヘレンケラー氏は3度来日している。
昭和12年(1937)に初来日、昭和22年(1947)には、戦後の日本を見舞って来日し、次いで、昭和30年に75歳のヘレンケラー氏が訪れた時に、花子氏は、飯田橋富士見町教会での通訳を務めたという事だ。
このノートルダム教会を訪れたのは、昭和12年(1937)の初来日の時らしい。福島でヘレンケラー氏の手を引いていたのは、P・トムソン氏と想像される。
有名な恩師サリバン氏は、昭和11年(1936)に亡くなられて、その後は、P・トムソン氏が、その精神を受け継いだという事からの想像だ。
福島の講演会の様子を、施設を案内してくださった方が解説してくださった。
トムソン氏が、ヘレンケラーが言いたい事を、掌の手話で受け止め、それを英語に翻訳し、その英語を日本語に通訳するという形で講演が行われたという。
話に感動した観客が拍手をすると、それを床の振動でヘレンケラー氏が感じて反応される。そのことに、今度は観客が感動を覚えるというよう感じだったらしい。
話の趣旨は、「村岡花子の生涯」で紹介されている「日本が盲人を受け入れる社会になるようにと人々の理解を求め、盲人には、自らの運命を諦めないように励ます」内容だったのではないかと想像する。
あちこち検索していたら、「ヘレンケラーの後半生」のページに、福島を訪れた時の新聞記事が紹介されているのを見つけた。
当時の新聞記事によると「素晴らしい福島を連続しながら会釈、直ちに自動車を列ねてノートルダム修道院に至り、昼食を終へて小憩し、臭覚と味覚と感覚とを通して「福島」を感受した。(中略)午後四時半ころ一夜の宿舎飯坂温泉花水館にドライブ、「温泉日本」を満喫した。」 次の日新聞には、「飯坂の一夜の感想を叩くと、新鮮な若鮎の味はどんなに摺上の水が美しく澄んでゐるかを思いはせてくれました。浴衣がけで縁先に出でて居りますと、音色は耳に聞こえずとも河鹿の鳴く音が一つの雰囲気をつくって、全皮膚面に豊かな情緒を伝へてくれ、私は夜更けるまで起ち上れませんでした。床に就いてをると美しい自然に抱かれた心地よさから、ほんとに安眠出来ました。こんな美しい日本ですもの、また機会があったら遊びに来たいと思ひます。」
この来日を実現するのに、福島の方も大きく貢献しているという話も聞いたし、宿泊したという「飯坂温泉」を検索すると、2度の来福の情報もあるが、まだ不確かな情報だ。
「村岡花子の生涯」によると、ヘレンケラーの来日は、福祉制度、朦朧唖教育の充実など、社会の変化を促す動きにつながったという。来日をきっかけに、東京ヘレンケラー教会が誕生し、「青い鳥」運動が全国に広がったとのことだ。