信夫三山24 ~ 再び羽山②
2010年 04月 17日

整理しながら気がついたのが、金竜抗北口をめざして、なんとなく目印にして登りつめたのが、インクラインらしいということだ。
何かを感じてはいるのだが、それが何だったというということにたどりつくのが遅い。
帰りは、警察射撃場あたりまでをめざして、作業路跡と思われる道を下ってみる。
この道が、転石登拝道やミイラのいい伝えがあるという山神の旧地への道筋とも重なるのではないかと推測する。

下りながら道筋を確認しているが、地下工場の作業員にとっては、作業が済んだ後の道になる。朝は、警察射撃場あたりの道筋から、この道を湯殿山北側に向かって、金竜抗の北口まで登ってきたはず。
途中、カタクリの花があちこちに咲いていた。
ここに疎開してきた中島飛行機武蔵野製作所は、国内最大級の工場。それが、3回の爆撃を受けて、地方へ疎開することになる。
この信夫山地下工場は、岩盤が固く爆撃に耐えられるということで、その建設地の一つとして選ばれたということらしい。
中島飛行機にかかわる戦争遺跡は、信夫山に限定して着目されるが、証言集等を読んでいくと、福島全体が、広くかかわっていることが分かる。
信夫山工場建設には、県内や市内鉱山はもちろん、全国の鉱山から作業員が集められたようだ。福島中学の校舎は、その朝鮮労働者の宿舎となっていたという。
工場の従業員は、中島社員の他、特別挺身隊、徴用兵、報国隊、勤労学徒などで、福島中学、福島商業の学徒も建設工事や組み立てに動員されたようだ。証言集によると、部品は信夫山工場で造られ、福島商業の体育館などで組み立てられ、そのテストは信夫山で行われたという。
中島飛行機の疎開のための先発隊は、初め本部を西屋旅館に置き、その後、経専に移動するらしい。工員は、清水や平野あたりの農家に分宿し、鉱山隊は、福島中学校、工作機械は日東紡に置き、また、日東紡には、半地下工場があったという。その他の機材は松川河原に置いたという。
毎日新聞で、郡山の空襲についてその原因を探っていたが、その情報と合わせて考えると、福島も空爆を受ける条件は十分に備えていたように思う。
ここは、米軍には知られていなかったし、実際にはエンジン数個作っただけで終戦を迎えたという。市内には軍需工場もあったが、郡山市などに比べて優先順位が低かったともいう。
しかし、戦争が長引けば、工場の稼働も上がるだろうし、情報も漏れないという保証はない。現に「戦争遺跡」には、高射砲も準備される計画も見える。
優先順位が低かったという固定的な安心感は、空襲を受けなかったという結果から導かれた論だと思う。空襲に遭う可能性は十分にあったが、それを免れたということではなかったかというふうに思う。

目視で確かめていた、警察射撃場の裏側に回ってみる。