信夫三山23 ~ 再び羽山
2010年 04月 16日
信夫山の北側を目視した経験と福島駅に置いてある地図のプロットで、そこにたどり着けるものかどうか試してみると、簡単にたどり着けた。
鉱山を運営していた大日本鉱業が撤退するのは、昭和18年(1943)金山整備令とかかわるらしい。
その跡を活用した信夫山地下工場が計画される。
昭和20年(1943)1月に中島飛行機武蔵野製作所の計画が決定し、3月15日に着工式、8月5日に廻覧とのことだ。
中島飛行機武蔵野製作所について、先にその情報の違いを整理した所だが、半沢氏の「戦争と信夫山」のメモに、このことにかかわることがあった。
精密旋盤が245台搬入され、計画では、353000㎡の地下工場に1450台、7000人の工員が動員され、月産353000台の予定だったが、実際には1500人にとどまり、敗戦によって中止された。(みみず書房「現代史資料」39巻)
「日本の戦争遺跡」にある従業員数7000人計画は、この数字と一致した。
この時点で、全体計画32800㎡は不明だったが、各資料の数値を確認していたら、これも推定できそうなことが分かった。
各資料で、一致している数値を羅列する。
建設開始1945.3.1、月産目標300、地下面積計画355000、実施100000、工作機械計画1450台、実際245台。
これ等は、中島飛行機会社報告や日本の航空機工業等一致した数値のようだ。そして、これは米国の調査報告書が基礎資料であり、面積の単位が、平方フィートだったのだ。この数値を変換してみると、355000平方フィートは、32980.6111145平方mで、「日本の戦争遺跡」の面積に近づいた。日本の計画数値を、平方フィートに変換したという経緯だろうと推定すれば、おおよそ一致したとみてよいのだろうと思う。
なお、100000平方フィートは、9290.31299平方mとなる。
「日本の戦争遺跡」にある高射砲の陣地は、まだ確認できないが、朝鮮人宿舎30棟というのは、証言集などと照らし合わせると、詳しくは分からないが、おおよその見当はつく。