信夫三山③ ~ 谷山③
2010年 03月 21日
ここは気軽に来るのには便利だけれど、考えようによっては、多くの人工の手が入り過ぎているという感じ。先の五つ石でさえ、裏は刻まれていて、写真に写すには痛々しいのでやめておいたくらいだ。
先の薬師堂あたりが室町幕府関東公方足利持氏に反旗を翻した青葉閣という案内の内容を確認をしたわけではないけれど、昨年の散歩でそのこととかかわるらしいことを羅列しておく。
○ 「福島城」と伊達氏との関わりにの中で整理したのが、室町幕府が奥州の勢力を牽制する関東管領の福島の出先機関である篠川御所と稲村御所と戦う伊達氏。
○ 西山城の赤舘の散策でその時代ともかかわるのが、応永9年(1402)に、9代伊達政宗が、篠川御所に反旗を翻して討伐されるというイメージの広がり。
○ 「長倉城の散策」でかかわるのが、9代伊達政宗とともに、長倉氏が関東公方に抵抗して一時長倉城に立て籠っていたということ。
青葉閣の掛田氏にかかわるのが、「懸田城の散歩」。その案内板では、掛田氏を建武2年(1335)源義家の後裔高松近江守定隆が、北畠顕家の命によって杉野目郷高松城から懸田城に移り懸田氏を称したと紹介する。ここに、この薬師堂の案内と関わるあたりを付け加えておく。
懸田氏が史料にあらわれるのは、応永7年(1400)、懸田大蔵大輔宗顕が、岩城菊田庄の藤井氏と一揆契状を結んだということとのこと。
応永22年(1415)には、懸田播磨守定勝入道(玄昌)が伊達持宗とともに大仏城によって鎌倉府に反旗を翻しているという。『鎌倉管領九代記』に、懸田入道が伊達・懸田連合軍の采配を振るったと記しているとのこと。この大蔵大輔宗顕と定勝が同時代の人物で、一族の関係にあったとされるようだ。『懸田史』では、定勝は定隆の孫とするらしい。
15世紀はじめ頃は、幕府から懸田氏は南奥州の有力国人として認識されていたという。