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地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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再び「西原廃寺」④~高寺堂跡③

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 菩提寺が西原廃寺と想定すると、その創建者は智興ということになるらしい。氏は徳一と興福寺で同窓ということであり、廃寺の金堂規模の大きさの考察などから、恵日寺と同時期と推定されているようだ。
 この寺が滅びる時期については、幾つかの考えがあるようだ。
 この高寺堂跡に建つ案内板では、「観応4年(1353)2月南北朝の戦禍にあい、この寺は灰塵に帰した」としている。
 この高寺堂が滅びてしまう時を、南北朝時代とイメージするようだ。これは、「霊山軍記」の「暮坪の戦いで、南朝方が総崩れになった」とあることからのイメージということらしい。
 南朝の北畠頼家が、霊山に立て籠っていた頃、この辺りでも、その戦いの影響を受けていたと考えられるようだ。霊山同様、ここの僧兵たちも南朝方として戦ったと想像されている。南北朝の激しい戦いは、結果として北朝勝利で終結するわけで、その時にこの寺は亡びたと考えるようだ。


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 山を降りながら、改めて自分の迷っていたコースを確認する。
今回は、西側から迷い込んで、ノイバラを避けながら登ってきた。
しかし、この道をまっすぐ下ると、先に断念したことのある今平神社へ続くようだ。


 改めて今平神社脇の道を確かめる。
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 今回、左側の道を通って、一度西側に山を回り込んでから登ることになったが、右側の道を進めば、そのまま高寺堂跡にたどりつくということは、今にして分かること。


 いくつかの見方があることが、もっとある。
 不動寺の記録に、伊達信夫両郡に三つの大きな寺があった。それは、湯野村の高寺堂菩提寺と芽部寺と信夫郡の大蔵寺であるとあるらしい。その中の信夫郡の大蔵寺は、渡利にある寺であることと、高寺堂菩提寺がこの西原廃寺であることは、一致した見方になっているようだ。
 残る芽部寺だが、「ゆの村」では、文脈から湯野と読み取っているようだ。
 先に不動寺を訪ねて整理した時には、この芽部寺を霊山寺と想定している見方を参考に整理している。
 個人的には、霊山寺、大蔵寺、そして不動寺の前身である高寺堂菩提寺ととらえたいような気はするが、何の論拠もない。
by shingen1948 | 2010-03-12 05:16 | ◎ 西原廃寺 | Comments(0)