地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島の建築 29ー2

 十綱橋は、歴史のある橋なので、興味の持ち方によって見え方が違う。
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 「飯坂の はりかねばしに 雫する あづまの山の 水色の風(与謝野晶子)」に、興味のある方には、今の橋の姿の向こうに次の橋を見る。
 明治8年(1875)の橋本館の新館の所から斜めに橋を架けた10本の鉄線で支えられていた橋が、明治24年(1891)の大修繕で蘇った姿を見ている。
 その向こうに、この橋がお手本にした宮中吹上御苑の吊り橋を想像しているかもしれない。


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 当時はここから橋の下まで降りられたようで、絵葉書などと照らし合わせると、この斜線の跡がその通路だったような感じがする。西根下堰の取り水口の新設に伴って、この橋の南側を堰止めているために、この河原が消えているようだ。

 伊達一の橋物語に興味があれば、それ以前の明治6年(1873) に架けられた「摺上橋」をイメージする。


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 もっと古く平安時代にも十綱の橋はかかる。これは、藤づるで編んだ吊り橋らしい。
 そちらをイメージするときには、こちらの景色が原型になるようだ。
 土手から木々が生えているが、あれらを目印にするといい。今の飯坂温泉駅わきの摺上川下の川岸から湯野町橋本館の南にある柳の木の所に10条の藤の綱を張り,それに横木を結び板をわたして渡っていたというふうにイメージする。これが「十綱橋」の由来らしい。

 千載集の「みちのくの とつなの橋に くる綱の 絶やすも人に いひわたるかな」とあるという事に興味があれば、それはこちらになるらしい。
 文治5年(1189年)に、大鳥城主 佐藤元治は義経追討の鎌倉勢を迎え撃つため、自らの手で橋を切り落とし石那城合戦に赴いたという橋も、こちら。

 ここは、この時代から明治までの長い期間、両岸に綱を張り船をたぐる「とつなの渡し」にたよるようになる。
 飯坂側の岸に大杭をうち,それに綱を結び,手で綱をたぐりながら舟で川を渡った。これが、地元では「十綱のわたし」という。
 a0087378_67875.jpg「奥の細道」フアンもこちらでイメージすることになる。
 なお、歌枕の旅の芭蕉はここを無視するが、曾良はここを知っていたということがあるらしい。

 現在、観光客用に共同浴場を新設する計画らしく、橋の北側が更地になっている。
 念頭で、旅館の建物の基礎部分を外し、削られた岩盤を復元する。そして、水量を減らしてイメージすると、絵葉書の景色が見えたような気分になる。
by shingen1948 | 2010-03-03 06:18 | ◎ 福島の建築 | Comments(0)