地元学でいう「風の人」として足元を見つめたり、できことを自分の視点で考えたりしています。好奇心・道草・わき道を大切にしています。


by シン
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福島の建築 29

 公共の施設には、税金が投入されていると思っている。その中で、橋銭小屋は、受益者負担ということだろうと考えている。
 ところが、これは勝手な思い込みなのかもしれない。
 飯坂の橋物語をみていると、基本的には公共物は、その地域が費用をねん出するのが当然とする価値観が見えてくる。
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 ここにかかる十綱橋の旧橋は、「摺上橋」と言われていたらしい。
 明治6年(1873)熊坂惣兵衛と盲目の伊達一が寄附金を募って、県に請願して木造の吊り橋を架けられた。
 これが、半年で落ちてしまう。
 その後、明治8年(1875)に、県は橋本館の新館の所から斜めに橋を架けることにしたという。その費用は、地域者の負担だった。宮中吹上御苑の吊り橋を模して10本の鉄線で支えられていたという。
 明治16年(1883)には、大修繕が加えられ、更に明治24年(1891)には、県費の補助も受け、伊達信夫両郡の負担で大修繕が施工されたとのことだ。

 ここで、見えてくるのが、地元負担が原則だ。その足りない分を県にお願いをして補助金を出していただいている。
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 旧橋は、漸次橋体は傾き,交通上危険のおそれがあるので架け換えが計画され、明治43年(1910) 8月27日には、大出水のために落橋し,45年(1912)4月から修繕されたという。

 現在の鋼橋の原形は、大正3年(1914)4月10日架設工事に着工し,同4年9月に完成されたものとのことだ。その後、昭和40年(1965年)に大補修が加えられたとのことだ。
 多分、これは全てが公費だろう。

※ 明治8年(1875)のこの橋の架設は官費とのコメントをいただき、確認したところ、その通りだったので、修正する。この時代、官費で賄うことはなかなか困難で,ほとんどは地域者の負担でまかなっていた時代にもかかわらず、この橋は官費だったという強調を読み違えたようだ。

 したがって、誤って記述したが、当時は地域者の負担という価値観の存在という趣旨は変わらないということも、付け加えておく。(2010.3.11)
Commented by TUKA at 2010-03-03 20:18 x
「福島県土木史」や「福島の町と村」によりますと、
明治8年の架橋は県費によるものだそうです。
「1年もたずに落ちたのは県の設計ミスが原因」として、
安場県令と交渉したのが後に安積開拓で有名になる立岩一郎で、
当時は飯坂の区長をしてました。
祖先は直江兼続の直参だったとか。

明治45年の「修繕」と言うのは初耳です。
43年は落橋は致命的だったと思われます。
ただ、落橋後に仮橋が架けられてますので、「修繕」とはその事を指しているのかも知れません。
仮橋の写真が「福島・伊達の100年」に載ってます。
Commented by shingen1948 at 2010-03-04 07:34
ご指摘ありがとうございます。
経緯は、「県の道路整備グループ」のページによります。
明治8年の架設は、ご指摘の通りのようです。
「当時、官費で賄うことはなかなか困難で,ほとんどは地域者の負担でまかなっていた時代であった。」という表記は、官費であったことの強調表現だったのを、勘違いしたようです。

明治45年修繕は、次のように紹介されていたものです。
明治43年8月27日,大出水のため落橋し,45年4月より工費2,500円をもって修繕したとあります。
by shingen1948 | 2010-03-02 05:20 | ◎ 福島の建築 | Comments(2)